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【35日目】ファミリーヒストリー

ご隠居からのメール:【ファミリーヒストリーをたどる旅】

備中高瀬村は伯耆との国境までは歩いて行ける距離にあり、備後や出雲との国境も近い。山口=長州(周防、長門)は遠く離れているが、明治維新後、岡山県人は天下をとった長州からの影響を強く受け、いわば、第二の長州化している。幕末の志士の一人に井上聞多(馨)がいて、伊藤博文とともに英国や密出国した。

 ファミリーヒストリーをたどる旅は必要かもしれない。家系図などをでっちあげて、家柄自慢をするのではなく、ご先祖たちが、どんな苦労をし、どんな悩みを抱き、どんな風に困難を切り抜けてきたかを知り、自分の生き方の参考にするのは意味のあることだ。

 たとえば、戦国時代には、親子、兄弟でも互いに敵味方に別れて、どちらかが生き残ればよいという苦渋の決断をしたこともありそうだ。

 両親が結婚したのは昭和十年、なかなか子が生まれず、昭和十四年になってやっと長男が生まれた。生誕の地はハルピンで、その後、大同に移り、さらにモンゴルの張河口に移った。

長男誕生の二か月後にはノモンハン事件が勃発――これは単なる事件ではなく、日露戦争の続きだよ。長谷部氏の部隊長が敗戦の責任をとって自決しているが、事件を引き起こした参謀の辻政信は責任をとらなかった。後にガダルカナルでも参謀になったが、参謀は責任を問われなかった。 

ブライダルのマーケットが今後、どう変わっていくかは予測がつかないが、個人的にはファミリーヒストリーを通じて、結婚や家族のありかたを見直す意味はあると思う。昔はほとんどが家を存続させるための政略結婚で、それは近親結婚になりがちだった。


返信:【Re_ファミリーヒストリーをたどる旅】

毛利氏の萩転封により家臣の長谷部氏も「萩藩」に2名同行していると山根さんに共有してもらったことがあるよ。

どこの系統の長谷部氏かはわからないけど、長谷部理叡(はせべりえい)さんのいきさつ記事をいくつか読んだ。関東軍の官僚的体制が日本の敗戦につながっていく象徴的な出来事だね。長谷部理叡さんは武士としての筋を通したと思う。

与一さんがどのような部隊にいたか知らないけど、ノモハン戦闘に関与、いや、もはや最前線で過ごしていたことに驚いた。明日死ぬかもしれない環境に、幼い子を抱えながら不安な毎日を過ごした貴美子さんの気持ちを想像するよ。

井上馨さんは、遠縁のひとりなんだね。家系図に記載のある登場人物と安芸井上一族をみると毛利元就、長谷部元信と同時期に過ごした井上俊秀氏や小早川景隆の家臣、井上春忠氏から勝次郎さんにつながってる可能性がありそうだ。

安芸井上氏は、毛利元就に30名も粛清されたのに助命された人物の子孫と考えると、感慨深い。助命された安芸井上当主を引き継いだ井上元光は毛利元就の妹と結婚しているので下手したら毛利の血も流れている。

結婚や家族のありかたは、時代によって変わってきている。夫婦別姓問題やジェンダー個々人のライフスタイルが尊重される時代と変わりつつある。女性蔑視発言の森さんがオリンピック会長職を下ろされるのは、日本の文化が変わる象徴的なことだ。昔のように「姓」や「血縁」のみが「家族」というコミュニティに分類されない時代も到来しそうだ。

海外では結婚のハードルが低く事実婚が認められている。


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