見出し画像

刑事法の選択性の再構成

犯罪の偏差(刑事法の選択性)の評価と判断に関する価値の言語化による再構成
クリストフ・ブルヒャート フランクフルト大学教授 講演会「「刑事立法・刑法解釈における憲法との協働:刑事憲法学の試み」を踏まえて

注 この記事は習作との位置付けで、調査研究事業のレポートとして掲載するものであり、参加した講演会等の内容や開催団体等の見解の紹介を主目的とするものではありません。早稲田大学先端社会科学研究所が主催し、早稲田大学比較法研究所が共催する講演会の内容に関しては、下記を参照の上、直接御照会ください。
https://www.waseda.jp/fsss/iass/news/2023/02/10/2600/
https://www.waseda.jp/folaw/icl/news/2023/02/06/8571/

2023年3月14日(火)午後、Christoph Burchard(クリストフ・ブルヒャート)フランクフルト大学教授による講演会「刑事立法・刑法解釈における憲法との協働:刑事憲法学の試み」が、早稲田大学早稲田キャンパスにて開催された。この講演会は早稲田大学先端社会科学研究所主催し、早稲田大学比較法研究所が共催するものである。早稲田大学先端社会科学研究所は、研究上の理念として社会科学の総合化、学際化、学際化を志向する研究機関であり、その研究成果を教育にフィードバックすることを目的としている。
同日の講演会は、学生、教職員、一般を対象に、ブルヒャート教授によるドイツ語の講演、仲道祐樹早稲田大学教授による通訳を交え進行され、講演の後、質疑応答が行われた。

10 講演のあらましと刑事憲法学についての理解
「刑事憲法学」という概念は多層性を持つ概念で、現代の刑事司法の多層性を複合的な憲法秩序の下でよりよく理解するための指針を提供するものとされており、ある特定の法秩序としての憲法の中に規定された、刑事司法を対象とする部分を意味する実定刑事憲法とは区別されている。

規範階層上、刑事立法は、憲法上要求される規範あるいは基本法と整合的な規範でなければならず、これらの規範は憲法適合的に適用される。憲法による刑法の「正常化」には、二つの側面がある。一つは法哲学的色彩の強い刑法理論やそうした考え方に基づく法解釈について、憲法の予定しない考え方の法的基盤を奪うという面である。もう一つは、刑法理論に基づく議論を、憲法の要請によって強化し、その拘束力を高める面である。
刑事憲法学は、こうした相互の法領域の参照にとどまらず、(1)学問分野内における思考のきっかけを生み出す方法としての刑事憲法学、(2)法律の憲法適合的運用を求めるものとしての刑事憲法学、(3)政治的発想としての刑事憲法学といったアプローチから、刑法と憲法の断絶を止揚し、乗り越えるための方法ないし構想を示すものとされている。

主として憲法以前の自由権に着目し、いわばリベラルな法治国家に軸足を置いていた刑事法の伝統的蓄積は、憲法上の規範階層的整理に際して注目されてこなかったのに対し、自由権に基礎づけられた刑法学が顧みてこなかった「例えば平等権や時間を超えた(世代間)正義といった基準」で、憲法からの批判を展開することも、刑事憲法学のアプローチからは考えられる。さらに、刑事憲法学は、通常刑法理論において想定されている非政治性とは異なる、特別な意味での政治性(政治的に決定される意思に基づいて、憲法上立法、行政、司法に認められ得る判断について、余地を排除したり、確保したりするような本質)を有する。そのため、禁止規範の比例性から、基本権の保護が義務づけられたり、過剰の介入が禁止されたりするような、特定の行為に関する(刑法学における)オプションが排除される(という刑事法学の外に向けた)方向での枠組みと、刑事立法、行政、司法の各アクターの判断の余地の選択(をどの範囲や程度で保障するかというような判断)に関する(刑事法学の)内に向けた方向の枠組みを提供する。

20 刑事憲法学のアプローチの整理と刑事法の選択性
講演から刑事憲法学の大枠を以上のように理解したが、刑事法に対して、憲法あるいは憲法学が与える影響は、刑法学の体系的思考が強固であるが故に、複雑なものとなると考えられる。その点、刑事憲法学の提供する枠組みが、刑法学の外方向と内方向のものがあるとの整理は、その複雑さの由来を整理しているものと言える。講演でも指摘されていた刑事憲法学が「どのように判断するか」という判断内容だけでなく「どのように判断するかを誰が行うのか」という判断の主体に関心を向けている点は、従来の刑法学に対する外方向の枠組みにおいて考慮される「判断の余地」が、各アクターによって異なり得ることに由来する。また、それぞれの判断主体による「判断の余地」の異同は、それぞれの判断内容を基礎付ける判断材料(具体的な事情がもたらす情報)に由来する。刑法学の内方向の体系は、これまでの様々な犯罪事案から得られた事実の評価に、その基礎を置いている。刑事憲法学の思考の枠組みがもたらす判断態様の相違あるいは変化は、これらの外方向と内方向において体系を基礎付ける判断材料が異なることによる影響と考えられる。

講演では、ドイツにおける禁止の錯誤に関するとして歴史的な展開を刑事憲法学的に分析し、実定刑事憲法の研究、実務、立法という面から、刑事憲法学からのアプローチの必要性が展開されたが、言及された様々な論点の中から、刑事法の選択性の問題に関し、ここでは検討することとしたい。講演では、自由権に基礎づけられた刑法学に対する憲法からの批判的展開としての刑事憲法学のアプローチ、平等権といった基準からの指摘が中核であったが、以下においては、より広い問題意識からアプローチしている。

31 選択性に関する基本的理解
選択性が問題となる場合とは、何らかの「かたより」の存在について解決の必要性が指摘される場合である。犯罪の発生についても、何らかの傾向が見られ、それが「かたより」として、政策的な対応が行われたり、あるいは対応の必要性が指摘されたりする場合がある。その「かたより」をどのように認識したり、評価したりするかに当たり、個人間の平等といった点からの検討の必要性を指摘されることにも首肯される点がある。

ところで、「選択性」は行政作用に限らず、ある作用(の影響や効果)に関し、対象によって異なることが認識される場合に用いられる概念である。ただ、薬物の効果の選択性などのような自然科学的な現象と異なり、刑事法の運用などの政策手段の運用の場合には、「対象によって異なる」という事象は「手段の作用として」認識される。つまり、行政作用は政策思考(目的と手段の関係に基礎付けられる合理性)という、いわば統治主体(あるいは個別の政策手段を担う行政機関など)の意思として示される。したがって、「選択性」と評価されかどうか、「かたより」と評価されるかどうかは別として、そもそも何らかの対象を特定するような性質(政策効果を目指す対象が想定されているという性質)を有している。

32 政策対象の分析という広義の刑事法の選択性
例えば、我が国の犯罪白書は、例年、特定のテーマ(高齢者や女性といったような個人の属性や新型コロナウイルス感染症の流行といった社会事象)を取り上げて、分析を示しているが、その分析自体が、当該特定の対象や事象(に関する傾向といった「かたより」)に対する政策(ここでは検証・検討などを含めた措置)を意味している。こうしたことに関し、例えば、労働力人口世代の男性に関する分析を行っていないというような観点から「選択性」を考える場合には、分析対象とされた特定の対象に対して、我が国刑事法(の政策体系)も、行政作用の選択性を意識的に政策活用(政策目的実現のための手段と)していることになる。こうした政策措置は、一定の根拠に基づいて行われるものであることから、「かたより」の評価の前提ともなる事案の整理や統計上の集計など(対象や事象の観測。さらにその結果としての犯罪白書による分析)に当たっても、政策思考に即した整理が行われることとなる。
したがって、政策として示された意思(言い換えれば、一般的な意味での政策的観点)が、ある属性を持つ者を対象としている場合には、対象の選択性は、政策の目的・手段・効果(影響)という政策の実現過程に内在され、政策思考の下、分析も可能となる。

33 選択性という評価の内実
一方、対象の選択性が政策的な意図に基づくものではない場合、例えば、犯罪白書等で示された政策的な取組みが、言語に関する意思疎通の問題から(政策的取組みに際し、ある言語による広報の必要性が認識されなかったことから)、(特定の外国人に対する)選択性が生じたというような場合には、政策の目的・手段・効果(影響)という政策の実現過程の検証だけでは、特定言語による広報の欠落という実情が十分に把握できない可能性もある。この場合、特定言語の使用者数という「量」の把握と評価のためには、その前提として、「使用言語という属性に応じた犯罪「量」」に関する評価が政策の実現過程に含まれている必要がある。そうでないような場合には、手段の欠落の把握やそれにより生ずる影響の把握を政策主体に検証を委ねるだけでは、選択性の実態が把握できないようなことも起こり得る。

このように選択性の問題は、単に特定の量的な(水準で示される)「かたより」の問題ではなく、ある政策思考を前提として「量」を評価した結果から判断されるものであり、量的水準は同程度であっても「かたより」と判断されるかどうかは、よって立つ政策思考の目的と手段の関係に依拠することになる。このため、選択性は、対象とする特定の属性が政策思考との関係でどのように位(くらい)付けられるかによって、行政主体や行為者による評価が異なる(評価が不十分となったり、他の要素に関する評価の背後に隠れて評価できなかったりする)という性質を有することになる(選択性に関しても認められるこうした性質は、評価や判断の尺度・基準に関する位置相関客観性の問題として知られている)。

40 特定の属性を対象とする犯罪類型(狭義の刑事法の選択性)
そこで、「かたより」の評価に関しても位置相関客観性の問題があることを念頭に置いた上で、改めて、狭義の(そして一般的・社会的にも関心の対象となり得る)刑事法の犯罪類型に関する選択性について、政策的にある属性を持つ者を対象としている場合を検討することで、基本的な課題の枠組みを確認することとしたい。

ある犯罪において特定の属性を持つ個人(属性の類型としては、性別、年齢、宗教、思想、人種、居住生活地域、所属組織あるいは収入水準などが想定できるが、必ずしもこれらを前提としていない。)が政策的に対象とされる場合、政策の効果や影響の過程に対して「属性に基づく何らかの介在」が意味を持つことが政策の合理性(例えば、貧困が故に犯罪に走るというような様式化・言語化できる合理性)を基礎付けることになる。
刑事法(により実現される政策的意図)は、ある類型の行為を犯罪とすることで、人に対して当該類型の行為を行わない方向へ誘導する(犯罪行為を禁止する方向へ規律する)とともに、誘導に反して当該類型の行為を行った場合に(刑罰というマイナスの)給付を行うという二重の構造をもっている。したがって、選択性に係る個人の属性は、犯罪実行時か実行後かいずれかの時点における評価に係るものである。個人の属性には、犯罪実行時と実行後とで変化するものもあるが、いずれかの属性に関係する事情が、誘導・規律(犯罪の成否など)に関する評価の基礎となるか、給付(刑罰の軽重など)に関する評価の基礎となる事情ということとなる。
また、刑事法において犯罪類型を定めるという政策決定により、人に対して当該類型の行為を行わない方向へ誘導する(犯罪行為を禁止する方向へ規律する)ことには、単に当該類型の行為を禁止するだけでは足りないという判断(を基礎付ける事情)が存在していることになる。つまり、ほかの政策手段では人に対して当該類型の行為を行わない方向へ誘導することが困難である(助成などによる行為回避のための政策誘導や禁止の法的な明示では不十分である)ために、刑事法(刑罰)という政策手段を用いざるを得ないとの判断が前提となっている。したがって、定められた類型の行為については、「起こり得る」あるいは「否応ない」といったような、限定が観念される水準での犯罪の発生(量)に対する予期が前提となっていることとなる。このように考えると、刑事法の場合、政策的に対象とするということ自体が、ある「起こり得る」量に対する予期を前提にしており、そうした対象に対する選択性は政策意図に織り込まれた帰結ということになる。

さらに、刑事法を犯罪の発生量を抑制する手法として捉える場合には、例えば、重罰化による禁止への誘導の強化や犯罪態様(いわゆる手口など)の周知による被害予防といったことなどがさらなる抑制を行う場合の手法として考えられる。そうしたことから、選択性が認められる属性のみを対象に重罰化するといったことを考えると、重罰化の合理性はもともとの犯罪類型設定の際の政策意図に含まれていると考えられる。犯罪の何らかの傾向に対する対処としての重罰化は、選択性を手段として利用していることになる。こうした重罰化という政策手段の選択性は、相対的法定刑主義の下での量刑の運用の結果として、特定の属性に対する「個別の宣告刑の水準」に「かたより」が生ずる場合も同様に当てはまり得ると思われる。
なお、被害予防のために選択性に係る属性などを周知するといった手法は、個人間の平等といった観点から提起される選択性の問題の解決手法として適格性を欠くのではないかと推測されるが、例えば、手口の周知による犯罪の予防は、当該手口による犯罪行為の発生(とその防止)を前提にするという意味で、選択性を手段として利用する側面も有している。

50 刑事法の選択制と刑事憲法学の関係の整理
以上から改めて、「刑事法の選択性」という課題を(1)刑事憲法学を契機とする刑事法理論の検証、(2)刑事憲法学の刑事法理論の外へ向けた展開、(3)刑事憲法学の展開の刑事法理論への取り込みとの観点から整理してみたい。
刑事法の政策構造は「犯罪行為を行わない方向へ誘導、禁止する規律」と「(刑罰というマイナスの)給付を行う」という二つの特徴的な面から理解できるが、こうした構造から政策目的達成のための手段となる、誘導・禁止(そのもの)とこれに係るインセンティブ(刑罰)の「内容とその正当性(刑罰論と刑罰の前提となる犯罪論)」の確認や検証が、刑事法における関心の中核に置かれることになる。ここでは、選択性の問題が手段の効果・影響として認識される場合、その影響を解消すべき(量的「かたより」を選択性の問題として解消すべき)と評価するためには、禁止の効果あるいは科刑の効果に関する理論的分析の中に、解消のための検証の契機が自覚的に存在している必要がある。

一方、刑事法理論の中に検証の契機がない場合もあり得る。例えば、刑事法理論からは量的「かたより」が政策効果として是認され、是正する必要がないと判断される場合や「かたより」自体が認識されない場合などには、改めて「量」に対する評価の必要性の有無を検証することが必要となる。この場合には、刑事法理論とは異なる政策に基づく分析も必要となる。そこでは、例えば自由権ではなく平等権や世代間正義を基礎にした政策思考を前提とすることとなる。刑事法理論の検証と刑事憲法学の外へ向けた展開との間には、寄って立つ政策思考の相違だけでなく、「量(かたより)」に対する評価に当たって、「基準の選択(位付け)」や「評価のあらましや尺度」に相違が存在し得る。例えば、理論の依拠する政策的思考の相違のほかにも、「量」の評価の対象となる「事実関係・事情」の観測と分析の相違なども、結果としての「量のかたより」の評価としての選択性の判断の相違につながり得る。事実関係の把握の「ありよう」の相違は、刑事司法の判断主体である統治機関と憲法的(刑事憲法学的)判断主体である統治機関との間における評価(のあらましや尺度)の相違の前提にも存すると考えられる。

さらに、属性によって生じ得る「量(かたより)」の評価に関する位置相関客観性の問題は、改めて統治機関と行為者というそれぞれの立場からの評価の相違について、刑事法理論の内部に向けて、外に向けての論点とは異なる問題を提示し得る。
人の様々な境遇・行動様式・行動信条(個人の生活空間を構成する様々な「性別、年齢、宗教、思想、人種、居住生活地域、所属組織あるいは収入水準などの属性も踏まえて個人が選択・利活用する」事情)は、ある行為者の意思決定・行為実行の過程に様々に関与している。
これに対して、刑事法は、まず禁止(方向へ誘導)された行為に該当するかの要件該当性を判断することから、その判断に必要な範囲を超える事情は捨象される。さらに刑罰(というマイナス給付)の要否・程度の判断に当たっても、その判断に必要な範囲を超える事情は捨象されることとなる。この二つの判断は、犯罪の成否の判断に当たり、いわば二重の「ふるい」として機能するものであるが、その判断は要件該当性の有無の組み合わせという非連続的な判断であって、例えば、違法要素と責任要素とをある「属性」がもたらす影響として、統合して判断するような性質のものではない。刑事法の分野においては刑法の補充性や断片性と呼ばれる運用原則があるが、政策目的(禁止への誘導)に対して限定的に用いられる手段である刑事法は、評価の対象となる様々な事情を補充的・断片的に評価するに過ぎないことになる。このことは、行為者が行為実行に当たってその判断の基礎に置く事情と刑事司法において犯罪成立に関する政策判断の基礎に置かれる事情とは、その対象としての事情自体は同様であっても、「どのような事情(に含まれる政策を構成するような機能)」に基づいて、「どのような目的(に含まれる政策を構成するような自由や福祉)」を達したかというような、評価に関する「基準の選択(位付け)」や「評価のあらましや尺度」が異なっている。このように行為者(犯罪者)と刑事司法を担う統治機関との間には、構造的に位置相関客観性の問題が存在していることとなる。特に行為者の寄って立つ事情は法的位置付けに係わらず行為後の認識・経験を踏まえて、評価の対象とされる。したがって、刑罰の予告による禁止への誘導という政策の効果も、誘導の失敗という(行為者の認識・経験を踏まえた)結果に基づいて、評価されることになる点にも留意が必要であろう。

61 合理的なマイナスの給付による不合理な結果という選択性の言語化困難さ
刑罰というマイナスの給付は、誘導の失敗を否応のないものとして前提としており、選択性という「かたより」に関する刑事法の関心の中核は、刑罰というマイナスの給付の要件のうち、そのマイナス性の合理的基礎付け(行為者にとって応報であったり、害悪の告知であったりするような、その身体・自由の制約を根拠付けるような性質の確認)に向けられるように思われる。そうした政策効果の検証は、誘導と給付の組み合わせという刑事法の基本的な政策構造を、刑罰という給付を起点あるいは中心として整理した上で、禁止に向けた誘導が失敗した場合の給付(刑罰)の範囲の合理性、行為者にとって利益か不利益かという価値尺度においてマイナスと評価される給付であることの合理性、刑罰という給付の将来に向けた効果に関心を寄せることとなるように思われる。こうした関心と刑事法の選択性の問題は、相互に極めて重要な影響を与え得ると想像される一方、刑罰という政策手段の合理性を前提に、その適用結果の数量的「かたより」の不合理性を説明する場合には、その言語化に困難を伴うように思われる。

62 合理的なプラスの給付の選択性
そこで、事前の「禁止への誘導」という規律を起点あるいは中心として刑事法を改めて整理すると、他の政策手段も含めて、刑事法の選択性の問題を重層的な政策構造から整理する視点を提供してくれる。
そこでは、刑罰という給付内容が、あくまでもそれは給付であって、犯罪行為の禁止に向けた政策資源の分配を行っているという点で、受刑者となる犯罪者にも政策資源の分配というプラスの性質の給付を行っていると整理できる。さらに、警察行政や司法制度の整備による安全な生活環境の提供という被害者を含めた一般に向けたプラスの性質の給付も犯罪者に向けて給付されている(犯罪者も、一般的に安全な生活環境を享受している上に、報復・私刑を受けるような環境にもいない)ことになる。
このように思考の方向を整理した場合には、禁止への誘導に関する予定された失敗(否応ない水準での犯罪の発生)であるところの選択性の問題は、刑罰という給付の性質とは切り離して、禁止の範囲や予定された失敗の政策検証(犯罪論による検証)によって、解消を図ることが可能な問題と再構成できると思われる。

63 プラスの給付という評価から漏れる刑罰のマイナス性の評価に必要な尺度
その上で、事前の「禁止への誘導」という規律を起点あるいは中心として整理し直し、その前提で、行為者にとって利益か不利益かという価値尺度に基づいて判断される刑罰のマイナス性について、考察すると、次のように整理できる。
行為者にとっての不利益性は、拘禁刑の場合の個人の自由、罰金刑の財産の制約を受容することに由来する。そうした制約を受容することの合理性が、政策資源の分配と同様に、あるいは付随して、認められる必要がある。この点については、刑罰という給付が、起こり得る犯罪を防止するために個人の自由や財産を制約する側面の合理性、その負担の分配の合理性といい得る。実社会を考えると、こうした安全環境の確保のための制約の負担は、受刑者のみが負担するのではなく、行動の監視や制約(監視カメラによる監視やある区域の立ち入りの禁止や回避誘導などの制約を受容する慣行の確立)など、広く一般に対しても負担を求めている。その意味で、個人の自由や財産などに対する制約(というマイナスの給付)についても、安全な生活環境の提供という(プラスの)給付と同様に、あるいは相互に付随するものとして、被害者なども含み得る国民一般と加害者である受刑者との間で分配するものと整理できる。こうしたマイナスの給付である行動制約の分配の意義に関しては、一般・通常の機会の通学路の安全の確保と近隣で犯罪が発生した際の犯人確保までの登校の自粛との比較などを身近な例とすることができよう。

64 マイナスの給付の分配の尺度(1)行動の制約の分配
このように禁止への誘導の失敗として発生するコスト(否応ない水準で発生する犯罪に関する負担)の分配の一部として、刑罰のマイナス性を捉えると、分配の在り方や構造に関連して、次の二点を刑事法の選択性の問題を検討する際の視点として、提示することができる。
第一に、刑罰という制度設計をする場合の制約というマイナス性の評価に用いられる尺度が社会選択の合理性を基礎付けられるよう均一化・等質化されているかという点である。例えば、拘束刑と社会生活環境における行動監視・制約に関しては、ともに個人の自由な行動への選好を制約するものであり、一般的・常識的には、行動の制約は少ない方がより好ましいと判断される。そして、そのことは給付に係る財源などの政策資源が少ない方が好ましいこととは、別の評価の問題であり、独立して評価する意義のある政策の機能である。したがって、政策資源や生活環境の安全の分配の問題からだけではなく、それが個人の自由という(ほかの財には換価できない)権利の制約であることが、特に制度選択に当たっての選好を基礎付けると考えられる。ところが実際には、社会一般の行動制約については常識的な「制約が少ない方が好ましいとの尺度」が用いられながら、受刑者の行動制約に関しては「制約の好ましさに関する別の尺度(人権制約は少ない方が好ましいというわけではないという尺度)」が評価の基礎に置かれているように思われる。すなわち、実際上は、受刑者の行動制約(制約の期間の長さや制約の態様において)負担が大きいと思われる。制約の負担が大きいことは財源などの政策資源の分配の問題とも関係するが、それと切り離した場合であっても、他人(一般人から見た犯罪者)の選好に関する関心も自己(一般人自身)の選好に関する関心と同様に個人(一般人自身)の自由を基礎付けるものであることから、誘導の失敗として発生するコストをより広く(したがってより多く)分配することにも一定の合理性は認められる。その上で、この制度選択は、受刑者の行動制約に関して「制約の好ましさに関する別の尺度」を用いることから、「制約が少ない方が好ましいとの尺度」を用いる場合に比し、分配の総和という意味での社会全体のコスト負担を増加させることを認識し、財源や人的資源といった性質の社会的コストだけでなく、自由という「権利の制約」の総和を増加させるものであることを自覚的に認識する必要がある。ここでは、「制約の好ましさに関する別の尺度」の内容に応じて、(平等性の観点から、)社会における生活環境に関する評価にも「制約が少ない方が好ましいとの尺度」以外の尺度による評価が考慮されることで、社会生活における制約も増加する。
刑事法の選択性の問題は、本質的には、このような人権制約の好ましさに関する別の尺度(人権制約は少ない方が好ましいというわけではないという尺度)に基づいた「(否応ない水準で発生する犯罪に対する社会の負担として許容される)人権の制約という給付」の分配の不平等さ・不均衡さにより生ずるものである。それは、受刑者の人権制約という「他人の行動選好に対する関心」を基礎にした「個人の行動選好には反する」社会全体の人権制約の増加という制度選択に基づいている。こうした観点から、刑事法の選択性の問題を本稿で指摘している刑事法の選択性に関する「位置相関客観性の問題」に則して整理すると、「社会の安全性の水準を低位に評価することに基づいて行われる人権制約が必要との判断」や「表面的な社会の静謐さなどから社会における人権制約の水準が必ずしも高くないとする判断」などについて、どのような情報に基づき、どのような評価尺度に基づいて評価するかといった「判断の情報的基礎」を明確にして、その客観性を評価・判断した上で、犯罪量のかたよりを評価すべきということになる。

65 マイナスの給付の分配の尺度(2)「耐え難さ」の分配の要否
指摘できる第二の点は、刑罰の権利制約性(マイナス性)に関連する評価の尺度としての「耐え難さ」に関する評価と分配の問題である。例えば、拘禁刑は受刑者の行動を制限するという重大な人権制限を伴うものであるが、生活保障・生存権保障としての給付という側面も持っている。こうした刑罰のプラスの性質自体は、これまでも説明しているとおり、給付としては何ら問題を持つものではないと考えられる。その一方で、刑罰の予告による禁止への誘導効果を考える場合には、権利の制約とは別の負荷として「耐え難さ」といったようなものを刑罰のマイナス性の要素として特に評価するということも考えられる。こうした「耐え難さ」といった要素は、それが刑罰を構成していることは否定できないが、尺度として評価が必要かについては慎重に検討する必要があると思われる。
憲法上は、「残虐」と評価される(耐え難いような)負荷を刑罰に付すことは禁止されているが、残虐性を構成する何らかの負荷(耐え難さ)そのものは刑罰の構成要素たり得ることは、刑罰の歴史に照らしても首肯し得る。仮に評価の尺度する場合には、刑罰の権利制約性に関する考察と同様の考察に基づいて、受刑者への耐え難さの給付(の増)という「他人の行動選好に対する関心」を基礎にした「個人の行動選好には反する」社会全体の耐え難さの増加という制度選択を肯定することとなる。
しかしながら、刑罰が「耐え難いもの」であるとしても、それを尺度として、受刑者に対して分配するのであれば、そこには給付としての分配に関する合理性が必要である。しかし、否応ない水準で発生する犯罪に関する負担として、社会が(権利の制約として生ずるであろう以上の)耐え難さを受容する必要性の根拠が薄弱である。
歴史的に見た場合には、市中引き廻しや入れ墨などの刑罰は、犯歴の公知化という効果の手段としての「耐え難さ」の合理性を一定程度基礎付けるようにも見える。また、社会全体における「耐え難さ」の分配の必要性の基礎としては、生命刑にすら殉葬、殉死・追い腹、人柱などを認知することも可能である。しかしながら、これらの過去の諸制度に基づいて、現代社会において、社会における耐え難さを許容し、分配する必要性を認めることは、少なくとも我が国においては困難であろうと思われる。残虐な刑罰の禁止が改めて憲法上規定された歴史的展開を考えると、現在では、刑罰の「耐え難さ」という機能にそもそも分配対象としての価値が存在しないのではないかと思われる。刑罰から耐え難さを取り除くこと、すなわち刑罰の緩衝を意図すると、被害感情、特に被害者や遺族による犯罪者に対する処罰感情に対してどのように応えるか(例えば、死刑は認められるか)といった実際上の問題を生ずる可能性があるが、被害感情が「他人の行動選好に対する関心」として、十分な判断の基礎を持つかを、自発的・存在的な感情の強固性とは分離して、適切に判断する必要があろう。自発的な思想や宗教などと同様に、自発的な感情自体を誘導すること(この場合、ある考え方を禁止の方向に誘導すると同時に、別の考え方に誘導するという二重の誘導の側面がある)には、自発的であるが故の効果上の限界がある。そうした効果の限界を生じさせる自発性には、情報的基礎の客観性・合理性の有無と表裏の関係があるように思われる。この点については、さらなる分析が必要と思われるが、自発性を持つ考え方そのものは、政策思考の枠組みの外に置かれるべきであろう。

70 刑事法の選択性の解消と刑罰の緩衝化という帰結
以上の考察は、刑罰の給付としての特殊性を、否応ない水準で生ずる犯罪に関するコストである「社会生活における安全の確保に必要となる自由の制約」の分配としての受刑者に対する最小限の権利制約性とすることが、刑事法の選択性の問題の解消につながることを示唆される。その場合、これまで常識的には政策手段の構成要素と意識されてきたと思われる「刑罰の耐え難さ」については、権利制約の限度(何らかの制約を金銭等に換価せずに制約自体を給付するという制度設計の限度)にとどめることが合理的になると思われる。
刑事法の選択性の問題は、単に「かたより」すなわち偏差に関する平等性の評価として数理的に処理するのではなく、「犯罪者という他人の選好」への関心により生ずる政策の合理性の検証に基づいて処理する必要がある。刑罰は、自由の制約という個人にとってより少ない方が好ましいと評価される機能自体を、社会と受刑者との間で分配する点で特殊性があり、この場合の合理性は、単に政策誘導のための給付の合理性とは別に、独立して検証する必要がある。

刑罰が、ある二つのことがらの間の衝突によりもたらされるものであるならば、政策手段としての刑罰は衝突自体をやわらげるものである必要がある。この緩衝性は、社会の安全確保や損害の回復、あるいは犯罪の抑止などとほとんど重なるものであるが、自由の制約に関する「これらとは異なる尺度」に基づく評価を行わなければ、顕在化させることに困難が伴う。刑事憲法学は、刑事法に対してこのような視点を提供すると同時に、刑事法の外に向けて、緩衝のための政策構築の視点を提供する。そこでは、これまでの教育政策や社会政策あるいは経済政策に用いられてきた尺度とは異なる「衝突の緩衝に関する尺度」に基づいて政策思考の合理性が検証されることとなろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?