見出し画像

定義されてるもの、されてないもの

 今回は 河合隼雄 著「イメージの心理学」を読んで、「駆ける、止まる」/長瀬 有花 について「そういえば」と考えたことを少しまとめさせていただきます、ぜひごゆるりと〜


 ではまずどうして「イメージの心理学」と「駆ける、止まる」という突拍子も無いような組み合わせをしているのかということについてですが、これらには似たような考えが感じられる部分があると自分が思ったからです。詳しくはこれからお話しします。
 「イメージの心理学」ですが自分は今回一部を抜粋して紹介するため、そこをざっくりとまとめますと『自然科学の知』と『神話の知』、すなわち現代科学と部族の文明との対比がされています。そこで自分が印象に残ったものは太陽についての認識で、現代の我々は太陽は高温のガスの塊であるだとか科学的に説明でき、普遍的に「定義されている」と捉えています。しかし、スイスの心理学者であるユングの自伝の中で書かれているプエブロ・インディアンという北アメリカの先住民族は、太陽を「自分たちの父」としており、我々が地球の自転によって起こるとしている日の出・日の入りについては「自分たちが祈りを捧げ天空を横切る助けをしている」と語っていたそうです。これらは現代社会では普遍的でないと言え、我々の定義とは大きく食い違います。また、逆に普遍的に正しくないと言うこともできるでしょう。
 しかし、それは自分を観察の対象から切り離して観測したことによって得た説明としては『自然科学の知』が有効であったとしても、自分という主観を含めて認識するコスモロジー、すなわち主観的な世界観においての話では『自然科学の知』の効力には限界があります。そこでこのような世界観を論じる上で有効なものが『神話の知』です。ここでは普遍的に「定義されたもの」ではなく、自分なりにふさわしい世界観といった「定義されてないもの」を作り上げる努力が各人に課せられます。
 さて、ここで「駆ける、止まる」についても述べていきます。こちらの歌には「正しさや答えは一つじゃない、定義されたものより自分が見聞きし、感じたものこそが答え」といったようなメッセージが込められてるいるように自分は感じました。(これは一個人の感想です。これこそ定義されたものではないですね。)
 この曲の歌詞の一つに「画面 二度見してみても時計は止まらない」とあります。こちらは我々の「定義されてる」世界では説明不要なほどに当たり前です。では「どうしては自分は時計が画面を二度見しても時計は止まらない世界にいるのか」という問いについて「定義されてる」説明はあるでしょうか。おそらくないはずです。また我々の存在意義なども同様で、何かの意味や意義を語るには『自然科学の知』は無力に等しく、それらを「定義する」ことはできません。
 また「駆ける、止まる」には「一つ 二つ 進む度 はてなが 増えた」、「誰もが 定義されている 世界の隅で 私は 答えを求めている」といった歌詞があり、これらは事象に対して意味、意義を求めるも「定義されているもの」では説明がつかないため分からず終いになってしまう、ということを言っていて「答えは (一つじゃない) きっともっと側で見つかる
(目を凝らして)
」という歌詞では自分の主観、「定義されていないもの」にこそ物事の意味や意義の答えがある、ということを言っていると捉えることもできるのではないかと考えました。


 では、今回の話をまとめさせていただきますと

「定義されているもの」で物事の特徴は説明できても意味や意義は説明できない。そこで我々は「定義されていないもの」を通して意味や意義を見出すことが必要となる。

ということを「イメージの心理学」と「駆ける、止まる」を通して理解できました、といった話でした。
 また、長瀬有花さんの「駆ける、止まる」ですが歌詞と曲調、そして有花さんの歌声がとてもクセになる中毒性が高く素晴らしい曲ですので聴いたことないよ〜って人はぜひ一度聴いてみてください。もしくは聴いたことがある人も今一度聴きながら自分の解釈を吟味してくださると面白いかもしれません。ここまで読んでくださった皆様方、拙い文章ではありましたがご精読いただきありがとうございました。

長瀬有花さんの「駆ける、止まる」はこちらから↑

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?