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誰が決めているか、敏感でいること

こういう表紙がさ、飛び込んでくるわけ。

「新たに始まる世界で、君はどう生きるか」だって。
めちゃめちゃ煽ってくるね。

まずふたりとも、目が死んでる。
目が生きてるか死んでるか、これ残念だけど、わからない人にはわからない。
だから、この写真が表紙になるまでに数々あったであろうステップにおいて、死んだ目の写真を並べることについて誰も指摘しなかったのか、それともわからない人しかいなかったのか、という想像をする。

ここで敏感でありたいキーワードが、いくつかある。

新たに始まる世界」→自分が世界をつくってるのに、何言ってんだこいつ?
ってならない人は、主体性がまったく足りてないと思う。
世界を他人に決めてもらって誘導されて飼いならされてたらつまらんだろ。

君はどう生きるか」→知るか。
この言葉にイラっとくるのは、「戦略的」すぎるから。戦略を立てることをこのようにして言語化して頭で捉える人間は、本物の戦略をわかってない。
そういうのは、捕らぬ狸の皮算用っていうのだ。打算的っていうのだ。
どう生きるかは、そのときのリアルタイムで選択する。いまを生きる。それがライブ感であり、生々しくいることの楽しさじゃないか。

そもそもタイトルからしておかしい。
10年後の状況を図鑑で学ぼうだと?
10年後の世界(またはその一部)は自分が作ったもので構成されていたほうが楽しいだろ。

そうそう、自由人になってからも、転職エージェントから毎日のようにお仕事紹介のメールが来るんだけど、そこにある募集要項みるとさ、

(あなたの新しいミッション)

(あなたがやるべきこと)

(あなたのバックグラウンド)

こういうふうに書いてあったりするわけ。
ミッションも、やりたいことも、他人に決めてもらうのがラクって思い込むのはとっても危険なことなんだ。それこそ、自分で決めていくからこそ人生が明るくなるってもんだろ。

会社とか、経歴とか、肩書とか、年収とか、そういう付加情報をすべてひっぱがしたときの、素のあなた。鎧を脱ぎ捨てたあなたは、いったい何を持っているか?そして何をしたいのか?
そこをめんどくさいって言って、一方では人生の希望を探してる。
自己矛盾乙。

バックグラウンドとか、どーでもいいだろよ。

誰かに頼るのが当たり前になっている人々。
そういう人を当然のように扱う人々。

なんか、ロボットみたいでつまらん。

自分の足で歩くことを決め、走っちゃってる人。All you need is loveだからこそ、言いたいことを言う。