自分のエゴ以外に子供を産む理由がない。

今年32歳になって、結婚や育児をしていて当たり前の年齢になった。してないけど。

結婚して子供を産んでる人を見ると、「いいなあ」という気持ちはある。

けれど、その「いいなあ」には自分のエゴしか見いだせないから、行動に移す気になれない。そのエゴのためだけに人間を新規作成してしまうことが怖い。そして責任を持てるとも思えない。

子育てをしている人が羨ましい理由。

「幸せだと認定されやすそう」
「無条件に私を必要としてもらえそう」
「老後に1人で寂しそうと思われない」とか。

幸せかどうかを「一般論所持者」に説明するのが、結構めんどくさいけど、子供がいれば少すれ違った人からも数秒で「幸せ認定」してもらうことが可能になると思っている。

特に私は幸せの定義が複雑化しているようなので、説明してすぐに理解してもらえないことも多く、子供って便利そう、と言うふうにしか見れていない。

エゴを満たすだけでなく、他人の評価が基準であることにも、納得行っていない。このまま子供を産んでも、今の私なら壁にぶち当たった時、人に何とかしてもらおうとすると思う。

私は、子供が生む責任としては
「ちゃんとした人に育てよう」ではなく、
「この子がどんな生き方を選んでも受け入れる」という覚悟が必要だと思っている。

勝手に産んでおいて、「私や社会に迷惑かけずに死ぬまで生きてね」だなんて無責任すぎる。

だったら子供を産まずにぬいぐるみでよかったはず。今ならペッパーくんと言う心のない奴隷もいる。

私の両親は私に何やかんや干渉しつつも、最終的にわたしの選択を受け入れてくれているから、私は自分の人生に絶望しつつもそこそこ受け入れてくれて死ぬまでちゃんと納得して生きていけるなあと感じる。

散々迷惑をかけてる時は死んだ方が社会のためだなと思うけど、私はこの人達のために生まれてきたから迷惑かけてでも死なない責任はあるなと思えるようになった。

でも、大切な人が苦しい思いをしているのはあまり見たくない。目をそらしたくなる。野良猫の子猫でさえ、「これからどんなひどいめに合うかもわからない」と思うと苦しくて見ていられない。


一般論で言う幸せな生活を「幸せ」と思えるこころを持って生まれてくれる保証と、その幸せのデメリットの責任を負う人がいる保証があれば産む。

でも何が彼を幸せと定義されるのかなんて、本人にしか決められない。他人が決めるのならそんな世の中には出したくない。

人殺しになっても、ニートになっても、自殺しても、その選択を受け入れられる覚悟がなければ、その子は親の産みたいエゴのために生まれて受け入れられずに見捨てられる人生になってしまう。

この苦しい世の中に子供を送り出すミッションを、自分で自分に発令できない。


少子化問題も、そんなに差し迫って危機感を持っていない。人手が足りなくなって、サービスの質が衰えるのだろうけれど、ないならないで仕方ないから。

どうしても困るなあと思うなら労働力のために子供を新規作成する意味はあるのかもしれない。

でも機械やテクノロジーを追究すれば、人力がなくても今の暮らしを存続させることが出来るかもしれないので、そうなるといよいよ子育ての娯楽要因は高くなる。本当に責任を持てる人だけが選んで産めば良いのだから。誰にも頼まれずに、自分が自分に頼んで産み、責任を持ち続けるだけの娯楽。


娯楽と言うには私には荷が重いので、子供を産むという決断はまだ出来ない。

お手軽に他人から幸せ認定をしてもらう手段としては捨て難いけれど、それだけの責任を自分には課せられない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?