「リテリング」について

英語教育界では「リテリング」が大人気です。
私も,良い学習活動だと思います。聞いたり読んだりした教材を,「正確に暗唱しろ」ではなくて,「ところどころ自分が使える表現に置き換えてもいいから言ってごらん」という融通の利く「ほわっとした」感じが良いと思っています。

ところが,「リテリング」が広まるにつれ,妙に原理主義的な「リテリング」論がちらほら見られるのが気になっています。典型的なのは「リプロダクションではなくてリテリングを!」というもの。原文の正確な再生を意味する reproduction ではなく,「自分の言葉で」伝えなおす retelling の方に高い価値を見いだす立場です。

私が問題だと思うのは「自分の言葉」の部分。
oral reproduction という学習方法が昔からあって,それと何が違うんだ?と問われて,「原文の復元にこだわらず,自分なりの言い方をしても許容します」という程度の便宜的な説明としてならばよく分かるのですが,「自分の言葉」に置き換えなければならない,となると,話は変わってきます。

「自分の言葉」とは何でしょう?原文の著者・話者は,常に完全な発話ができているわけではないにしても,その人が言いたかったことがらを最も良く表すために「その言葉」を選んでいるのではないでしょうか。であるならば,それを勝手に「自分の言葉」に置き換えてしまったら,それは原文の内容を伝えていると言っていいのだろうか?と疑問に思うわけです。

「リテリング」を,英語を習得する方便としての「学習活動」ではなく,原文の内容を人に伝えるという「コミュニケーション」を意図して行うのであれば,それは,「オーラル・インタープリテーション」や「レシテーション」,あるいは「要約」や「パラフレーズ」と比べて,どのような優位性,あるいは少なくともどのような差異を持つものなのでしょうか。それがどうもわからないのです。

まったく個人的な回顧ではありますが,アメリカのある高校を訪問したときに,生徒が開いていた平和集会で,故人の言葉を,故人になりきって発表することで,過去の記憶を現代につなげよう,活かそう,という部分がありました。これこそまさに recitation の本来的な姿だと思ったものです。ここでは,故人がどのような状況で,どのような想いでその言葉を発したのかを理解したうえで,「自分の口で」それを言い直すことをしているわけですが,理解すればするほど,故人の言葉を自分の言葉に置き換えることなどできなくなるのではないでしょうか。

そして,そんなに「自分の言葉」が大切なのであれば,最初から「自分の言葉」で語らせればよいのでは?とも思ってしまうのです。つまり,スピーチやプレゼンテーションですね。その「手前」でリテリングをやるのだ,ということであれば,やはりそれは「真正のコミュニケーション」というよりは「学習活動」と考えるべきものなのではないか,と思うのです。

そういうわけで,「自分の言葉」というものは,「英語力が足りないから,原文通りの表現を適確に使うことができないけれど,今の手持ちの英語力でも,まあ,だいたい,なんとか,原文と同じようなことは言い表すことができる」という,学習者なりの言語使用と捉え,「言える範囲で頑張って言ってごらん」と学習者の背中を押してあげる,という程度で理解しておく方が,教育場面としてはやりやすいのではないかと思うのです。

そして,暗唱だ,要約だ,とあまり厳密な条件で縛らない,「ほわっとした」学習活動でありうることが,「リテリング」の良さなのではないかなあ,などと思っています。


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