話すこと・書くことの評価について

研修会などで現場の教員どうしでディスカッションするときに,話すこと・書くことの指導が話題になると,だいたい決まって「評価が難しい」という話になります。

評価の公平性を保つのに苦労する,というのが定番の「お悩み」で,たいてい「難しいですよね~」という共感で終了という流れ。

一般論として,発表技能の場合,生徒のパフォーマンスが必ずしもこちらが想定している範囲におさまってくれるわけではなく,こちらの出した評点の差が,本当に生徒の力の差を表すといえるのか自信が持てない,ということには同意します。

また,特に話すことの場合,生徒のパフォーマンスはすぐに消えていくので瞬間的な評価が求められることや,録音・録画で評価する場合に評価者の負担が過重なものになりがちであることが「評価が難しい」という感想につながることもよく分かります。

ただ,評価規準・基準の設定に関して,「それはちょっと違うのでは?」と思うことも多いです。

それは,「生徒のパフォーマンスの何を評価の対象として,どのくらいの重みで評点を付ければよいかが分からない」という話です。言い換えれば「評価規準・評価基準の設定が難しい」ということ。

本来は,話すことにしても書くことにしても,「こういうことができるようになりなさいよ」という目標を持って指導をしているはずで,評価場面では,その指導したことができているかどうかを見ればよいわけです。生徒にできるようになっていてほしいことができていれば「〇」だし,できていなければ「×」なのです。あるいは,自分の求める水準にどれほど迫ることができているかでグレード分けをすればよいのです。

言ってみれば,それだけの話です。それだけの話なのですが,それが難しいという「お悩み」の吐露を聞いていると,どうも,「習熟度テスト proficiency test」と「到達度テスト achievement test」の区別がついていないのではないか,と思うことが多いのです。

英検だとか TOEFL だとか GTEC だとかいう「習熟度テスト」,つまり,特定の指導を前提にしない一般的な英語力を測定するテストであれば,たしかに,個別のパフォーマンスのどこに着目してどのように評価するかというのは大問題です。だからこそ,言語テストを専門にする研究者がいるわけだし,テスト実施主体は,専門的な手法に則ってテストを実施するわけです。

しかし,学校で普通行われるのは「到達度テスト」,つまり,教えたことがどれだけできるようになっているかを測定するテストです。(だからこそ「指導と評価の一体化」が叫ばれるわけです。)

であるならば,全方位にバランスよく気を配る必要はなく,一点突破で,自分が生徒に期待していることができているかどうかに絞って評価すればよいのではないでしょうか?

そこを混同してしまうから,「評価が難しい」という話になる。

もちろん,上で述べたように,それでも評価が簡単でないことには同意するのです。

しかし,それと同時に,評価を語るときに,「どのように評価するか(HOW)」ばかりに目を向けて,「何を評価するか(WHAT)」が話題にならないのは,おかしいと思うのです。

生徒にどんなことができるようになってほしくて授業をしてきたのか。生徒に話してほしい・書いてほしい英語はどのようなものなのか。それが明確でありさえすれば,「何を評価してよいかわからない」という話にはならないと思うわけです。

「お手本を示してやるから,その通りにやれ。」(指導)

「お手本通りにできるかどうか確かめてやる。」(評価)

こういうのはずいぶんとレトロな教育観なのでしょうが,上に述べたような「評価の難しさ」は,実は,評価者=指導者の「お手本」への意識が薄いことにも原因があるのではないか,と思っています。

お手本(WHAT)さえ示せば後は生徒が勝手に学び取る,というわけにはいかないから,いろいろと教え方(HOW)が工夫されてきたわけですが,HOW を高度化すれば WHAT は後からついてくる,ということでもない。

指導+評価の場面で,どんな WHAT を生徒に要求していくか,というのは,やはりしっかりと勉強して考えておかなければならないことだと思います。

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