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目を澄ませる

ケイコ 目を澄ませて」を観て、最初Twitterに下記を書こうとしたけれども、文字漏れるし、ネタバレもあるかと思ってやめた。
「ケイコ 目を澄ませて」と「silent」のネタバレぽいものが含まれると思うので、未見でネタバレ嫌いな人は読まないでください。

「ケイコ 目を澄ませて」シャドー、スパー、試合、ダンスの非言語手段では解り合えて、言語手段(手紙、音声認識、聴者との手話)ではすれ違う。silentは伝え続けることを選択していたが、対極のこの映画にも心打たれた。劇伴がなく音楽は弟のギターのみ。生活の音が音楽だった。
未ツイートの下書き

で、ここで「silent」はすれ違っても伝え続けることを選択したと書いたけれども、それは、想と紬だけで、湊斗と紬はそうしていないのだよ!

聴者と聴者である、湊斗と紬は、「湊斗が」紬を目を澄ませて見ることで、非言語に近いコミュニケーションが成立していた。
ろう者と聴者である、想と紬は、すれ違いながらも、まっすぐお互い見て言語手段(手話や文章)でコミュニケーションしていこうと決意していく。

silentでは、ろう者と聴者がコミュニケーション手段の違う異国交流のように表現されていると感じたのだけど、異国のコミュニケーションにはそれ相応の向き合い方があって、知識と配慮と尊重が必要だけど、同じ国のコミュニケーションは解ってくれるだろうという馴れ合いみたいなものが日本では生じやすい。

「好き」という気持ちは抗えないものだとは理解しつつ、奏と紬がお互いまっすぐ言語手段に向き合おうと頑張れば頑張るほどに、湊斗とは言語手段のコミュニケーションを別れる時にしっかりされなかった事に落胆してしまって、だいたい湊斗側で無限まやかし的には恋愛ドラマ屍側(主人公の恋愛成就の脇役として使われるような人生)の人間としては、最終話に向かうたびにどんよりした気持ちになってしまった。

最終的には登場人物個々が昇華され解決され前へ進めるような物語を作ってくれていたし、屍側にもしっかりとスポットをあててくれた群像劇のような作品で、台詞が人間に優しい上に、言葉の多面性や繊細さが溢れていて大好きな作品ではある。あるのだがッッ

そして、観た「ケイコ 目を澄ませて」は、言語手段のコミュニケーション(手紙、音声識別、聴者との手話)はだいたいうまくいかない。だけれども、非言語手段のコミュニケーションで心が通じている。

ジムでの会長との鏡越しのシャドー、コーチとのスーパーリング、弟と彼女とのダンス、真剣に拳を交わす試合。それは、日本人的な解ってくれるだろうという馴れ合いの心の通じ合いではない。

拳を交わす事や、一緒に踊ることで理解する感性の交わりみたいなもので心が通じている。言葉を大切なものとして扱うsilentと対極のような表現で心を打たれた。

どちらが良いとかはない。
どちらも良い。
言葉で伝えようとすることは大事だし、
言葉を交わさずとも伝わることは尊い。

湊斗と紬が別れる時、解ってくれるだろうという馴れ合いに近いもので話さなかったのではなく、付き合っている時は、湊斗が目を澄まし続けていたことで伝わっていたけれども、最後、紬もまた湊斗に目を澄ましたことで、伝わったのかもしれない。
それが、別れる時だなんてねッ!
抗えない「好き」って残酷だ。
(まだsilent引き摺っとるやん)

「ケイコ 目を澄ませて」は、劇伴が一切なく、生活の音全てが音楽に聞こえたのもとても良かった。リズムというのは耳で聞かなくても身体の中にあるもの。
そして、湿気やほこり臭い空気、冷たい風、土手の良くない匂いが感じられたのも良かった。
絶賛されている岸井ゆきのさんと疲れた三浦友和さんが素敵でした。派手な物語ではないかも知れないけれど、気になった方はご覧になってください。

ってここまで書いて監督のインタビューを読んだら、リズムのこと話されていた。
でも、非言語で心を通じていたことは書かれていなかったから全くの皆目見当違いかも知れない。
わかったふりが一番怖い。
これは、正しくそうです。

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