LSE/ロンドン留学記(Week 2)

イギリスでのコロナ感染者数は右肩上がりを続けている。

そんな中で、銀行口座がなかなか作れないでいる。
Barclaysで作ろうとしたが、電話で銀行に行く予定を取らねばならない。
いつも向こうから電話がかかってくる時は授業中でしかも非通知なので全然予約が取れない。
だから今度はHSBCに申し込んでみている。
実際イギリスの口座を作る必要は無いのかもしれないが、万が一のために、時間のある今のうちに作っておこうと思う。

学生用のOyster CardとかRailcardとか、人から勧められるので申し込みをしてみているが、この状況下で必要無いのではと思ってしまう。

SIMカードって今は進化しているなぁと思う。
ネットで住所とメールアドレスを入れるだけでSIMカードだけ送られてきて、
それをオンラインでログインして好きなプランを選択する。
月ごとにプランを変えることもできるし、やめたければ打ち切ればいいだけ。
店舗に行く必要が全く無い。
当初電話番号を固定にするために銀行口座を作ろうとしていたけど、本当に作る意味が無くなってしまった。

コロナのせいで、パブに行けなくて残念だね、と言われる事もあるけど、個人的には勉強に集中できるし、みんな極力密集しないから、逆に快適に過ごせるなぁとも思う。
授業の資料もオンラインからアクセスできるようになっているし、スライドも共有されて録音もされていたりするし、担当教員ともオンライン上で面談できるし、いい部分もあると思う。
課題についても、オンライン参加してる人のことも考えてメールやオンライン上の教材プラットフォームに丁寧に説明がされている。
一方で、授業後に友達と意見とか情報交換をすることができないのは、やはりデメリットに感じる。

雨とくもりが多く、女性のように移ろいやすいイギリスの天気が本領発揮しはじめている今日この頃、
久しぶりに晴れた週末に出かけた散歩は最高に気持ちよかった。
これから季節性うつがやってくる時期だから、心身の管理のためにも定期的な散策は重要だ。

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<Research Studio>
今週は実際の研究対象になる地区をみんなで回った。Royal London Hospitalという大病院がある地区で、周辺にはベンガル系の人たちが多く住んでいる。医療機関と都市との関係を考える、というテーマで、自分にはぴったりのテーマのようにも思うが、大病院というのは実際周辺の都市環境とは隔絶されている事が多い気がする。家のすぐ目の前に大病院があるような地域って住みやすいだろうか。そして大病院はすぐ目の前の住民の健康に寄与しているだろうか。逆に言うと、この隔絶感こそが、ポイントなのかもしれない。ハードな科学の象徴である医療とソフトな生身の人間との間の隔絶を象徴するものが病院なのかもしれない。診療所となると違うのだろうけど、大病院というのはやはり権威や権力を象徴する存在であり、意図的にか意図的でないか分からないが、建物のデザインにも反映されていると思った。

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イギリスの公営住宅を回るツアーも行われたが、住宅事情というのは国によって本当に全然違うようだ。
ロンドンの不動産は金融危機の影響で、安全資産として急激に価値が高まった。
地方政府も短期的な収入を得るために、今まで持っていた公営住宅を市場に売り出したために、
低賃金の人々が住める手頃な住宅が不足してしまっている。
住宅戸数が不足しているのではなく、高価な住宅が多数余っているのだ。
それに輪をかけてAir B&Bの影響で賃貸市場に出さない家主が増えたため、
ますます手頃な賃貸住宅が不足しているという。
一方でドイツやシンガポールでは公営住宅が多く提供されており、
資本家の投資対象になる枠が少ないため、高騰は比較的抑制されているそうだ。
日本はどうだろうか。公営住宅は収入基準が厳しく、多くの人に門戸を開いているとは言い難い。
一方で入居者と建物の高齢化が進むと同時に、公営住宅への偏見も存在するように思う。
日本にはスラムは無いが、ネットカフェ難民やホームレスなど、見えにくいだけで居住環境の提供において課題は十分あるように思う。

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<質的研究>Epistemology, Critique and Reflexivity
Donna Harawayという人の研究に関する見解に対するアプローチに非常に感心した。
絶対主義は、神様のようなある絶対的な視点から見ようとするもので、相対主義はどの視点からも同時に把握できるという考え方で、どの視点も同じ価値があると考えるものだ。
いずれもGod Trickという危うさを抱えており、自分の視点について省察的であれ、というのが彼女の主張だ。
正しく認識しようとするならば、ある視点だけでよいわけではなく、逆にどの視点も価値があるわけではない。
完璧な理論や視点も無ければ、普遍的な真理も存在しない。
だからそれらの情報を総合的に批判的に分析して判断しなければならない。
今まで客観性や主観性、という枠組みで考えていたが、新たなメタ視点として省察性、という観点が得られた。

<都市デザイン>Minor architectures and insurgency
我々はしばしば新自由主義に絡め取られているかもしれない、という事に内省的でなければならない。
彼らは包摂的や参加型、意思決定などという言葉と地方自治や市民団体を使ってうまく市民をコントロールしようとしているかもしれない。
都市計画家も、それに加担している可能性がある。
市民活動も非公式の場合には自由に活動できるが、組織が大きくなり公共性が高くなると、結局コントロールされてしまう。
したがって、
個々人が小さい単位で自主的な活動を続ける事が、市民の自由を維持する上で重要ではないか。

どういった都市や建築が望ましいか、という志向性には実は潜在的に西洋的な文明が理想である、という前提が隠れているかもしれず、常に省察的でなければならない。
そうした新自由主義という現代版の植民地思想的なアプローチは、新たな形で見捨てられた人々を生み出している。
日本ではスラムは無く、貧困や差別が見えにくくなっているが、見捨てられた人々は必ず存在している。
性差別や高齢者、貧困、こうした問題に立ち上がるために公共空間は役立つが、現代日本ではあまりでもも見かけない。
一方で、オンライン上で集められる主張は政策に対しても力を持つようになってきている。
COVID-19の影響でますます人々が現実世界で集まりにくくなっている中で、オンライン上の仮想世界に公共空間が作られるのだろうか。そうした時代の中での公共空間の役割とは何か。


<都市社会理論>Human Ecology and Urban Positivism
貨幣経済と自然科学がいずれも量的データの絶対性を信じており、その力が弱まる気配はない。
社会科学も自然科学から派生したものであり、対象を物質から社会という力学に変えただけで、自然科学的アプローチのまま、生みだされた。
社会科学の起源であるシカゴ学派が立ち上げた都市科学という機能主義・量的研究は、構造主義や質的研究が認知されてきている現代においても今なお主流であり続けている。

自然科学の信者は、普遍的真理の存在を疑わないので、構造主義的な認知論に基づいている質的研究の意義を自然科学の人々に理解させるのは非常に難しい。
ただ、いずれの認知論に基づいていたとしても、そうした自分の認知論的立場に省察的である必要はあるのではないだろうか。
自然科学を否定する必要はない。もし否定しようとするならば、それも全般化や単純化しようとする自然科学と同じ志向になってしまう。
それぞれの知見を組み合わせながら、複雑なものを複雑なままに取り扱おうとする事が重要である。

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