LSE/ロンドン留学記(Week 7)

今週は来週の授業でのプレゼンに向けての準備をする1週間になった。
大統領選も終わって平穏な日々が続く今日この頃。


<質的研究>Discourse Analysis
インタビューやエスノグラフィーなどの1次データを取れないテーマや対象について、資料の中にある言説を解析する手法。
その中でも特に、Critical Discourse Analysisは、権力や知識が言説を通してどのように世の中に影響力を及ぼそうとしているのか、を探ろうとするもの。
ただ、実際にそうした言説がどのように人々に影響を与えたのか、なぜそうした言説が作られたのか、ということは解明できない。
研究者の政治的見解や主観性に大きく左右される、という批判もあるが、それはその他の研究手法についても同様。


<都市デザイン>Zones and new paradigms of development
巨大公共事業は公共の資金を使っているにも関わらず、公共の利益のためにどれだけ還元されているか、という点は曖昧にされている事が多い。結局公共資金を使って民間企業の利益を生み出す事にしかなっていない可能性がある。
現代のオリンピックも、オリンピックという名目のもと公共資金を使い、民間企業の利益となる巨大再開発を正当化するために利用されている。
特にオリンピックは短期のイベントのための事業かつ準備期間が短いため、長期的なビジョンがないがしろにされる傾向がある。
また、近年は大学の移転事業も地域の浄化を正当化するために利用されている(京都の崇仁地区)。
交通網の整備など、巨大投資によるメリットもあるが、巨大プロジェクトはしばしば現在そこで生活している人々の存在をないがしろにしている。


<都市社会理論>Theorising the Urban Public
コミュニティースペースとパブリックスペースは混同される事があるが、これらは全く異質なものである。コミュニティーとは同質性の高い集団であり、パブリックとは異質性の高いものである。
都市の課題を解決する方法としてコミュニティーの重要性が唱えられる事がある。しかし、コミュニティーというのは過干渉や全体主義といった問題もはらんでおり、必ずしも絶対善と言えるものではなく、個人主義とコミュニティーのバランスが必要である。

実は個人主義もコミュニティー主義も、各個人の差異を否定しようとする、という点では類似性がある。コミュニティーは融合や同質性のために各個人のアイデンティティを否定しようとするが、個人主義は、すべての個人が同じ権利を持った構成単位である、というアプローチで個人の差異を否定しようとするが。

望ましい都市生活、というのは、各集団の差異を認め合う事の上に成り立つ。実際、都市の中では、他人同士が同質になることなく共同生活をしている。こうした異質なアイデンティティが共存する都市生活の実現のためには政治と公共空間が欠かせない。政治というのは、分かり合えない者同士が交流する中で、合意を形成しようとする場であり、公共空間は、異なった集団に属する人々が交差する場所である。したがって、都市生活のためには政治が必要であり、政治のためには公共空間が必要なのである。

オンライン上の空間が近年拡大しているが、これは現実世界の公共空間の代わりにはなりえない。というのは、オンライン上の空間は株主の利益のために動く企業により管理された空間であると同時に、同質性の高い空間だからである。公共空間のように、異なった集団の人々に訴えかける、あるいはその訴えを聞く機会は制限されている。また、オンライン上にアクセスする手段を持たない人々は排除されている事も忘れてはならない。

当然現実世界の公共空間もすべての人がアクセスできる開かれた空間とは言えず、権利・アイデンティティの摩擦を生み出せる政治的な場所であると同時に、各集団の力関係の結果生み出されたものでもある。公共空間について考える前に、公共とはなにか、という事を考えなければならない。公共の中に含まれている人、排除されている人たちは誰なのかを考え、様々な異なった集団が交差できる領域を作り出す努力が必要である。

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