LSE/ロンドン留学記(Week 4)

25日からサマータイムが終わって日本との時差が1時間広がった。
生活的にどうなるかと言うと、夕暮れが早くなる。
3時くらいには夕焼けで5時になると真っ暗という感じ。
ランニングを今まで5時台にやってたけど、4時台にやらないといけなくなってしまった。

コロナの状況はあまり大きな変化はない。
コロナの検査の無料提供はどちらでもよいのだが、インフルの予防接種を無料で受けられるのはありがたい。
UCLやSOASは完全オンライン授業だそうで、半分対面ができている環境も当たり前ではない。
大学として安全管理のアピールのためなのか分からないが、オペレーションは留学生の自分でもほぼ不安は感じないし、LSEはしっかりしているなと思う。

先週はストレスを結構感じていたが、睡眠リズムが整ってきたせいか、比較的穏やかに過ごせている。
分割睡眠にして、寝る前にシャワーを浴びた後は勉強しないようにしたのがよかったようだ。

それ以外にも今週は授業でフィールドワークが2回あってクラスメートと話せたのも精神的な安定に役立っているのかもしれない。

日本から同時期で留学に来ている知人とハイド・パークで散歩した。
対面で日本人と話すのは久しぶりで、天気もよくていい気分転換になった。
学びとしては、
* LSEに限らずイギリスのアカデミアは左寄りの人が多い
* 大学院はどこも、誰でもやっぱり課題が多くて大変
* 都市計画家という職業がイギリスで成立するのは、各自治体の開発を決めるルールが日本のようには明確に決まっておらず、都市計画家が議論して決めているから
* gentrificationやinequality、racialism、colonializmなど日本ではほとんど馴染みのないトピックだが、イギリスではどこでも中心的なトピック。こういう自分に馴染みのない視点に触れられるのは留学のメリット。
* 日本では再開発や公共地の私有化があまり問題として議論されないのは、日本人が、そうした変化に対してポジティブにとらえているからではないか。政治や民主主義への意識が日本は全体として低い点、イギリスほど貧富の差や住宅事情が大きな問題となっていない、というのもある。

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社会学を勉強しはじめて1ヶ月。
色々な疑念が生まれてきて、じゃあどうすればいいの、と思う事が増えている。
世界銀行もアメリカが牛耳っていて資本家の都合のよい世界を作るために貢献している、SOASやLSEも植民地支配の賜物と言う。
社会を批判的に見るのは大事だと思っているが、目指すべき具体的な行動がわからなくなる。
いや、何も考えないよりは、きちんと知ろうとすることが大切と思っているが、知ったから考えたから世界が変わるのだろうか、と疑問に思ってしまう自分もいる。
そもそも批判的に考える事が自分が幸せになるために役立ってない気もしてしまう。いっそ白痴がいいのではないか。

実践と思考、どちらかだけではダメで両方が大事だから、今は思考を鍛える時期なのかな、と思うようにしたい今日この頃。

<Research Studio>
グループでフィールドワークを行って、歩道の幅や街路樹の位置などをマッピングして、店の名前や種類もExcelに書き込んだ。
取れるデータは全部取る、らしい。ゴミ箱の場所とか椅子の場所とかも。
地道な作業だけど、都市デザインをやってるな、という感じがする。
ただデザイン畑の同級生が当たり前に使っているPhotoshopとかを使った事がないので、どこまでこのまま粘れるだろうかわずかに不安が残る。

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<質的研究>Interviewing

最初に録音してよいかを確認するように

あまり被検者の背景を根掘り葉掘り聞かないように 自分の事も不必要に語らないように

クールダウンは大事(何を一番伝えたいか、経験を振り返ってもらう、将来に関する質問)。診療と同じ。いつも導入ばかり気にしていたけど、きちんとまとまるような終わり方をしないといけない。
マーカーには注意を払うように(具体的なエピソードを引き出せるとっかかり)
なるべくオープン・クエスチョンを使う(でもleading questionも被検者がスムーズに答えるために有効)

授業の評価課題はやはりその授業の内容をきちんと把握したか、それに対して能動的に取り組んだか、で評価されるんだろうなと思う。だから授業で扱う本を課題の中では取り込んで、授業の課題図書をきちんと理解できてますよ、それについてしっかり考えましたよ、っていうのを伝える、という事を意識してエッセイを書かないといけないなと思った。当たり前なんだけど。

<都市デザイン>Edge economies, migration and multiculture
Edge Economies: ハイストリート、小規模事業者(マイクロエコノミー)

ハイストリート、というのは政治・経済・社会が複雑に入り組んだ空間である。
人種差別と境界線はいまだに強く残っている中で、地球規模の相互依存と多文化共生が凝縮されている。
時間ー空間の距離はグローバル化の中で圧縮されたと言われるが、すべての人が平等に恩恵を受けているわけではなく、人によって時間の流れは異なる。

小規模事業者(マイクロエコノミー)の重要性:移民が新しいビジネスをはじめ、自立する足がかりになる。また、コミュニティーの連帯を支えている。

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<都市社会理論>Theorising the Neoliberal City
グローバル化や世界中での分業化は効率化を促進して、世界中に富をもたらした、と言われる。
しかし、この富は誰に渡ったのだろう?
効率化したからといって、その富は多くの人の手に渡っただろうか?
結局スティグリッツが指摘するように、グローバル化は格差を広げただけなのではないだろうか。

グローバル化と密接に結びついている新自由主義。
COVID-19のパンデミックはウイルスのように世界に形を変えながら広がる新自由主義のもたらしている害悪を連想させる。
このパンデミックは現代社会を反映し、その問題を浮き彫りているに違いない。
ウイルスも新自由主義も平等という名のもとに、弱い人々を苦しめている。
おそらくこのパンデミックでニューノーマルという言葉が言われるように、新自由主義も気づかない間に我々の社会やコミュニティーの中に入り込み、社会の形を変えてしまったに違いない。
気付いた時にはもう我々の社会に深く入り込んでしまっていた。

当然それらを完全に排除することは不可能だし、不要だと思うが、少し距離を置くことは必要ではないかと思う。
やはり、COVID-19のパンデミックに対しても思うが、人々は安易な解決策や短期的な変化についつい目が向きがちだ。
このパンデミックへの絶対的で明快な解決策が無いように、新自由主義への戦いも、COVIDと同様にグローバルとローカルの両方へのアプローチを使いながら、それぞれが能動的に考えて行動し続ける先にしか未来は無いのかもしれない。
新自由主義は極度に追求しすぎたせいで大きな歪みを生んでしまい、今より戻しが来ている。
ただ、これは新自由主義の消滅を意味しない。
ウイルスが強すぎると宿主を殺してしまって繁殖できないように、新自由主義もそれが媒介する人間社会が消滅してしまっては生きていけない。生かさず殺さずの程度で付き合っていくことになるのだろう。
新自由主義は極端な形ではなく、我々の社会に適応した形で生き残るに違いない。
グローバル化も極度のグローバル化の弊害からより戻しが来て、ある程度のグローバル化で落ち着くのだろう。
そして、その新自由主義を完全に制圧する、というのは我々の思い上がりであり、我々がコントロールできないところに存在するものなのかもしれない。

我々が新自由主義と戦うには、その根本にある、競争の原理と向き合わなければならないのかもしれない。競争を捨てる。
カミュがペストの中で、誠実さと連帯の重要性を唱えているように、我々は競争原理から距離をおいて連帯の重要性を再考しなければならないのではないだろうか。


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