LSE/ロンドン留学記(Week 3)

この土曜日からロンドンもコロナの警戒レベルが上がって、他の世帯の人と屋内で会うのは禁止になった(授業は例外)。

最近の悩みはもっぱら精神管理だと思う。
1ヶ月が経過してやっぱり結構しんどくなってきているのは間違いないなと思う。
馴れてきた、とも言えるんだろうけど、論文の読み方も構造化がルーズになってきたし、授業の目標設定とか振り返りも最初に比べるとちょっとだらしなくなってきた。
論文を読んでも頭に入ってこないことがあったり、頭が冴えて寝付きに1時間かかってしまったり、結構頭の中がオーバーフローしてしまっているのかもしれない。
選択授業を他の学生が今学期と来学期で2個ずつ選択する所を3個-1個と配分した事をやや後悔する部分もあるが、授業内容や評価方法を考えると、総合的には今頑張るのがよいに違いないと信じようと思う。

ということでこの日曜日は全く文献は読まず、ビールを飲みながら大学時代の友達とオンライン飲み会をした。
結果としては結構頭の中はすっきりしたかな、という感覚。
こういう日は大切だ。
旅行に行ったりすれば、外的にそういう風にできるんだろうけど、こういう風に環境を変えずに頭を切り替える工夫をするのも練習なんだろうな、と思う。
毎週こんな風に完全に勉強を離れる日を作れればいいんだけど。


画像1

(fourth plinthと呼ばれる写真左の台座は1-2年おきに作品が変わる)


<Research Studio>
決められたエリア内のある部分を選んでそこに関して研究・発表するわけだが、我々のチームはWhitechapel Marketという市場を対象することになった。市場がどのようにinformal careとして機能しているのか、という視点。
例年ならば歴史資料を調べるために地元の図書館に行ったりするけどそれができない今年は、ネットでなんとか調べないといけない。

グループワークをしていると、なかなか思うように発言できなかったり、議事録係をしてもあまり感謝されない、なんて些細なことに自己効力感が下がったりする。
こんなにメンタル弱かったっけな、と思うけど、他分野で他言語で、対面で同級生と会えなくて、そんな事が影響しているのだろう。
今までがなんだかなんだうまくできてただけで、こういう事も当然あるんだろうなと思う。
自己管理のためのよい機会と考えるようにする。

<質的研究>Research Ethics、Power and Difference、Decolonization
研究倫理、というのは時代背景や文化背景によって変わる。
植民地時代には、植民地の研究対象に対して倫理を配慮しなければならない、などという事は全く考えもしなかっただろう。
我々の文化では倫理的と思われることでも、土着の風習的には非倫理的なふるまいと受け止められることもある。
さらには研究の各段階によって考えるべき倫理的課題は異なる。
研究計画書を作る時点では想定していなかった倫理的課題が途中で上がって来ることもしばしばある。
研究を終えてそれを世に出す、という時点では、その内容を発表する事が研究対象者たちの今後にどのような影響を及ぼすのか、という事も配慮しなければならない。

自分の置かれている立場が潜在的にどのような権力構造の中にあるのか、を批判的に考える事も重要だ。
相手の文化の中に溶け込もうとするのも一つ、その中には入れないものとして距離を最初から取って観察するのも一つ。
ただ、どの立場であっても完璧な研究の視点などはない。(時代背景に左右される、という点はどうやっても動かせない)
だから、完璧を目指すのではなく、その限界について謙虚に批判的に振り返ろうとする事が重要だ。
そしてもう一つ重要なのは、研究対象を自分の研究のためにただデータを搾取する対象と考えるのではなく、そのコミュニティにどのように貢献するか、を考えることである。


<都市デザイン>Power and prosaic publics: Trafalgar Square site visit
公共空間というのは、色々な役割を持っている。
人々が団結するための場所であり、人々が行き来する場所でもある。
ただ、そうした空間のデザインを考える時、我々は気付かない間に常に西洋中心の価値観の中で考えていないだろうか。
植民地思想がいかに根深く我々の社会に根ざしているか、という事のよい例だろう。
重要なことは、我々のそれぞれの背景に根ざして真に自立した学問をそれぞれが立ち上げることではないだろうか。

<都市社会理論>Critical Urban Theory
都市は特定の空間に限定された存在ではなく、グローバルな資本主義に抵抗する人々のフィールドである。
資本主義は都市社会と密接に結びついており、すでに世界のほぼすべての住民に浸透している。
誰もがお金の共同体に巻き込まれており、それは農村社会がないことを意味している。
したがって、現代の都市学は、これまでの都市学がそれぞれの歴史的背景の中で課題に取り組んできたように、都市と農村の境界を越えて新自由主義の課題に向き合い、社会変革に貢献していくべきである。

一方で、貨幣の影響力が強いからといって、貨幣の力を否定する抜本的な社会変革を行うことは現実的ではないだろう。
しかし、ルフェーブルが日常生活の重要性を示唆したように、小さな範囲であっても、それぞれの場所で、それぞれの日常生活の中で、社会変革に向けた行動を起こすことは可能であろう。
私の父や友人の何人かは、自分の食料を守るために日常的に野菜やお米を育てている。
そのような活動は、支配的な資本主義に抵抗するための政治的実践としての力を持っているのかもしれない。
それと同じように、日常生活の中で、あるいは都市生活の中でも社会活動を行うことで、革命的な行動に貢献することができるかもしれない。
重要なのは、状況主義者のようにユートピアを夢見て社会構造の問題を単純化して複雑な現実から逃避するのではなく、理想的な社会の実現と住民を自分たちの社会に取り戻すための継続的な闘争に取り組むことであろう。

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