LSE/ロンドン留学記(Week 1)

いよいよ授業選択も決まって本格的に授業がはじまった。

生活はマイペースが維持できていて、留学すると太るという通説の中で痩せてきている。

でも文献を読んでると睡眠リズムがどんどん夜中にずれ込んでいってしまっている事が懸念材料。きちんとリズムを取り戻して維持するのが一つの大きな目標。
週末は嵐だったせいもあり外出できず体があまり疲れていないのも眠れない原因なのかもしれない。

健康管理の課題としては体の温度管理の難しさも感じる。というのは寒いと思って着込むと蒸れて汗をかいて、後で冷える、という。雨が多いから湿度が高い日もあって、難しい。じっとしてると寒いけど、歩くと暑くなってくる、という。そしてマスクをしてるから余計に暑い。

そんな中で気分転換は南スーダンと同じように結局お笑いの動画に落ちついてきた今日この頃。

今学期はCities by Design(都市デザイン)、Urban Social Theory(都市社会理論)、Qualitative Social Research(社会学における質的研究)という選択授業とResearch Studioというグループワークの必修科目を取ることになる。全部で4つある選択科目のうち3つを今学期に当てたことには不安が残るけど、やはり今後必要になる知識である事、教員がサポーティブである事を優先すると、やむを得ない。

11月第2週、今学期11週間のうちの6週目にReading Weekという授業がない期間があけど、このカリキュラムはおそらく計画的に作られているんだろうなと感じる。南スーダンでもやはり1ヶ月半くらいで疲れが出てきて、R&Rが用意されていたけど、やはり1ヶ月半単位の区切りというのが人間には必要なのかもしれない。また、こちらの授業ってよく構造化されていると思う。LSEだからなのかすごくサポーティブでみんなティーチングに馴れてる。どの授業もしっかりアウトラインがあるし、目標や評価がはっきりしている。日本の大学の時の経験を踏まえると大違い。言語の壁の大きさと、こっちの内容のメリット、どちらが上回るだろう?こっちで勉強した方が実は構造化された知識になるかもしれない。

一方で、授業を受けたり課題図書を読んで感じるのは使う用語の難しさと、文献の組み立て方が医学と異なるという難しさも感じる。課題図書はおもしろいし、社会学者というより思想家がすごく出てくるので勉強になる。ただ知らない人は聞き取れない。今週授業が始まって思ってたけど、使う単語とか知らない単語がすごく多い。思想系はやっぱり言い回しが難しい。なんか都市デザインを勉強してるのか、思想を勉強してるのかよくわからなくなる。まぁこういう分野は好きだからいいんだけど、何に役立つのか、と言われるとちょっとむずかしい。

授業の準備やリーディングの仕方、体調管理など、今までの経験が生きていると感じる部分は大いにある。大学卒業してすぐだったら、なかなか今みたいにできていない気がする。自分なりの能動的な勉強方法や自己管理法が確立してきたおかげかと。

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<質的研究>
修士論文の準備をする上で役立つだろう、というのと先生がsupportiveだからという理由で選択。
課題図書は方法論が書いてあるから比較的読みやすい。授業も分かりやすくて安心して受けられる。
ただ、仮説を立てない、という質的研究のアプローチが、つい仮説を立てたくなる自然科学畑の自分にはまだしっくり来ない。
評価用の課題は研究を自分で実施しないといけないが、日本をフィールドに考えている自分がそれを実施できるのかは不安が残る。

-授業メモ-
質的研究とは何か?:HowやWhyの質問に答える研究。仮説はなく、仮説を作る。自分の期待によって結果を捻じ曲げないように注意が必要。どういう認知論と存在論の上に立って議論するかを最初に明確にする必要がある。

Ontology(存在論):「あれは何なのか?」物事の性質を追求する 例:人間とは何か?
Epistemology(認識論):「いかにして知るのか?」どのようにしてその問題や現象を認識するか 例:どのようにして人間とは何か、ということを知ることができるのか?

<都市デザイン>
クラスのほぼ全員が選択しているほぼ必修科目のような選択科目。

-授業メモ-
デザインとは何か?:人と物との間で理想を作り出すプロセス

住居というのはただの生活空間や取り引き対象の物ではなく社会的存在である。したがって、家主の意見だけではなかく、そこを使う人々の声を聞く必要がある。
住居問題は人間社会において繰り返されてきた不平等な社会構造を反映した問題の1つに過ぎない。したがって、すべての人に適切な居住環境を提供すべきだ、という考えは、その社会構造に反対し民主主義を尊重しようとする活動でもある。そのためには、すべての人が、居住環境に関する議論に参加し、連帯すべきである。さらにそのためには、多くの人が議論に参加できるように問題を噛み砕いて多くの人に広める必要があり、選挙の投票率が低い日本などでは投票に行くように推進する事も必要である。

<都市社会理論>
都市を語る上ではその切り方を学ぶ必要があるだろうと考えて選択。

-授業メモ-
都市理論とは何か?:必ず政治と関係しており、何かしらの政治的ポジションがある。何かしらの背景のパラダイムに基づいた上で、都市へのイメージを持っている。

都市、というものは、ポリスや中世の城下町などを含めると話が変わってしまうが、近代都市、という枠組みで考えると、それは18世紀にイギリスのマンチェスターではじまった産業革命により始まる。そこから、資本主義や貨幣経済など産業都市の基盤となる社会構造が確立し、産業都市・近代都市が生まれる。そして、その近代都市の問題点を記述・分析したのが、社会学の起源にも近いが、エンゲルスなどである。
こうした都市理論は勉強になるし、興味もあるが、自分の将来の何に役立つのかはいまいちはっきり見えない。もしかすると、何か起こっている現象を切り取ろうとした時に、その切り取る道具・枠組みとして使えるのかもしれない。非常に系統的に学べているのでよいのだが、日本の都市計画の学生は果たしてこんなことを勉強するのだろうか?

ブルーオーシャン:このアプローチ自体が、資本主義経済の中で、自らを商品化する、という根底にある思想からは脱却できていない。自ら見たい景色を見る、という領域を目指さねば。
個人主義、というのは、これも都市化・産業化の中で、個々人が商品化される中で生み出されたものであり、それまでは村の団体主義で、競争も少なかった分、個人の個性や価値などというものも考えられていなかったのである。だから、個性や人生の捉え方、というものも、当然それ以前の時代とは異なっているに違いない。

宮沢賢治:日本におけるエベネザー・ハワード?反人間化主義・ユートピア思想・農村主義?

都市計画というのは果たして工学なのか?自然科学なのか?自然科学というのは、普遍的な答えがある、という認知論の上に立っているが、東大の西村先生系の先生たちは、ナラティブの研究をしており、これは、現象というのは捉える人の捉え方や時代によって変わりうるよね、という社会科学的な認知論の上に立っているように思う。だから都市計画の中にも自然科学的なアプローチの人達もいるだろうけど、そうでない人たちも一定数いると思われる。

そして、都市計画が、政治的な側面とは切っても切れない、最終的にはむしろ政治的に決まる、という面の重要性を、勉強を始めてみて強く感じる。

社会科学と自然科学の橋渡しというのは、果たして可能なのだろうか?表面的にいいとこ取りをすることは可能だろうけど、東洋医学と西洋医学の真の意味での融合が難しいように、そもそも根底にあるパラダイムというか認識論が異なるものを融合するのは難しいと思われる。論理的に整合性のあるものを2つの間に立てる事は理論的に困難ではないだろうか。

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