LSE/ロンドン留学記(Week 6)

今週はReading Week。

図書館で本を借りていたけど、結局文献を書くためには手元に置いておきたいので、ついにAmazon UKのアカウントを作って買うことにした。このご時世だし、本屋で探す手間も無いのでとても便利だ。
Kindleもあるし、ネット上見れる文献も多いし、随分便利な時代になったと思う。
3つあった中間課題のうち2つは仕上げる事ができたのでまずまず予定通り。

ロックダウンのおかげで街は静かになった。交通量も減ってランニングも快適になった。
でも日本食材店では明らかに買い占めが起きているようで、米や豆腐、納豆が無くなっていた。
食料品店は閉鎖しないと言われているのに買いだめしてしまうのは日本人の国民性なのかもしれない。
ロックダウン中の生活は特に支障ないのだが、これがいつまで続くかは心配だ。
冬休みに帰国して日本でフィールドワークをしようと思っていたのに、ロックダウンが延長されて出国できないとなったら困るなぁと漠然とした不安がよぎる。

また、今週はアメリカの大統領選挙があって、米国民でも無いのに夢にまで出てくるほどソワソワしてしまった。

今週は授業は無かったので、中間課題のテーマをざっと日本語でまとめておく。
書きながら随分と社会思想寄りに染まってしまったなぁと感じる今日この頃。

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<質的研究>
「S.Hallの著書'City, Street and Citizen’の研究手法に関する書評」
ロンドンの移民街の人々の生活を描く事を通して、急速に変化する都市環境が移民の生活にどのように影響を及ぼしているのかを解明しようとした本。
情景が目に浮かぶ物語のような詳細なエスノグラフィーと文章力、マッピングや統計データを組み合わせた複合的な研究手法に関しては評価に値する。

その一方で省察性に関しては課題もある。
観察する対象から、その背景にある社会の力学を解明しようとするRealtive Ethnographyというアプローチを行うのがよい研究テーマと言える。
Relative Ethongraphyでは、影響を受ける側や虐げられている側(例:住宅から追い出される人々;貧困層)だけではなく、影響を与える側や恩恵に預かっている側(例:家主、行政、開発業者;富裕層)の側も含めて、その事象に関係する様々なグループを観察する必要がある。
しかし著者のアプローチは、一部のグループのみに焦点を当てており、社会構造を解明するには至っていない。
また、著者自身が白人女性である事や、学者という社会的立場から観察しているという点が与える影響に関しても考察が不十分である。
上記の、自身の研究アプローチと自身の立場の2点に関して、省察的な考察を行う余地がある。

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<都市デザイン>
「Parkland Walkの観察を通して考える、市民活動により公共空間を維持する事の意義」

物理的な公共空間はデジタル空間が拡張する現代においても必要な存在である。
物理的な空間は人々の五感を刺激して社会への帰属感を育む。この帰属感は、市民の一員として結束して権力に抵抗するために必要である。
他方のデジタル空間は本当の意味で開かれた空間とは言えない。市民のための空間ではなく、企業によって株主の利益のために恣意的に操作された空間である。また、デバイスを操作することのできる限られた人々しか参加できず、情報も選択的であり、同質性の高い空間である。
こうした点から、デジタル空間が公共空間に置き換えられるとは言えない。

新自由主義の台頭により次々と我々の公共空間は民営化・商品化されていっている。デジタル空間と同様に、公共空間も企業や行政に管理を委ねてしまってはならない。この流れに対抗するには、市民が日常の中で自ら公共空間の維持に参加する事が有効である。なぜなら、維持活動は日常的な草の根の活動であり、日常生活の中にこそ社会変革の源があるからである。

ただ、この公共空間も、社会の支配構造が反映して、一部の人に独占される空間になっている可能性がある。公共空間の維持活動は民主主義的な活動でありながら、逆に不平等を助長することに加担していないかについては省察的でなければならない。

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<都市社会理論>
「公共空間と社会的弱者の健康との関係性」
公共空間は公共という性質上すべての人に対して開かれた場所でなければならない。しかし、本当に公共空間はすべての人々がアクセス可能だろうか。
環境が健康に寄与する影響に関する知見は集積されてきており、公共空間に介入する事で多くの人の健康に寄与できる、と期待されるが、実際には限られた人しかその恩恵を受けられていない可能性がある。
社会的弱者と公共空間の関係性を読み解く事で、包摂的に健康に寄与する公共空間に必要なアプローチを探る。

前提として、公共とは何か、健康とは何か、という点を定義しておく必要がある。
いずれも普遍的な存在ではなく、社会によって相対的に定義されるものである。
まず、公共という概念は、産業化とそれに伴った個人主義の確立と都市化に伴って成立した西洋社会における近現代の概念である。
また、健康の概念についても、自然科学的・客観的な定義が普及しているが、主観的・文化的な側面は十分には体系立ていない点には留意が必要である。したがって、現代西洋社会における、という文脈を前提として議論を展開していく。

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