基地引き取り運動(2017.6)

2017.6.25のFacebookより

https://www.facebook.com/100000734393542/posts/1555594467808351/?d=n 

日本で「基地引き取り運動」が起こっているという話は数年前から聞いていましたが、ここまで大きくなってるとは知りませんでした。私は高橋哲哉さんの本も読んでいないし、引き取り運動をされている方たちの主張を直接聞いたことはないのですが、この連載記事から感じたことなどを書かなければいけないと思いました。なぜなら社会学的な概念がその歴史性などを全く無視して引用されて行くことへの危惧を強く感じたからです。

参照はこの記事↓
(http://wpb.shueisha.co.jp/2017/06/16/86525/)

 この記事で何度も言及される「ポジショナリティ(positionality)」という概念は、そんなに薄っぺらい概念ではありません。

 ポジショナリティという概念はAdrienne Richが、白人女性によるフェミニズムが「女たちの経験」「私たちの経験」を主張してきたけれども、その主張をすることで特定集団を周辺化してきたことに対して責任を取らなければならない、つまり白人以外の女性たちの立場を理解することに失敗したことを省察し位置の政治学(the politics of location)の重要性を提起したことに端を発しています。Richの観点は、人は多様なアイデンティティーを持っており、自分自身がそれを捨てたいと思ったとしても捨てることができない属性が身体に付与されているというものであり、多様な位置性、そしてそこから抜け出せないということを自覚しようというものです。この議論を受けGloria Anzalduaは、単一のアイデンティティのみを語る危険性を警告し、二つ以上の領域に属する境界的な場である「ボーダーランズ(Borderlands)」という概念を提起し、Trinh T. Minh-haは「アイデンティティーは闘争の帰着点ではなく、むしろ出発点」として新たな階級秩序を作らないために「無限の層」としてのアイデンティティズを強調してきました。

 つまり、「そこで強調されるのが、やはりポジショナリティである。自分自身が置かれている政治的権力的な位置、沖縄問題でいえば、本土の人間が有する差別性であり、これに里村さんは「私たちは植民者だ」と痛感した。」(第二回3ぺージ目)という文脈で話されるポジショナリティは、Richの議論の最初の半分くらいをやっとカバーしたという水準でしかないのです。そもそも「琉球併合」(波平恒男先生の表現)の過程から現在に至るまで日本本土が沖縄に対して持っている帝国主義的態度を省察しなければいけないということは当然のことで、これまでの運動でも様々な形で実践されてきたことです。

 Richなどの主張から基地引き取り運動を考えてみた場合、ポジショナリティという概念をもって議論するべき事柄はとりあえず三つあると思います。

 一つ目に基地を「引き取る」か「引き取らないか」の選択ができるということ自体、沖縄の人と本土の人のポジショナリティが徹底的に異なっているという点です。沖縄にそのような選択肢が与えられたことはありません。つまり基地を「引き取る」かどうかを議論できる位置にあることの特権をまず自覚する必要があるのではないでしょうか。

 二つ目には、基地引き取り運動が本土/沖縄の二項対立を強化していることです。本土の人たちの様々なポジショナリティはどうなるのでしょう。指摘するまでもなく本土と言っても都市と地方に存在する権力関係について全く説明できないばかりではなく、その権力関係を完全に無視してしまっています。
 もう少し具体的に私の経験から話をしてみたいと思います。私の実家の隣町には航空自衛隊があり飛行機がびゅんびゅん飛びます。私の住む町は小さな町で財政的に豊かではありませんでしたので学校に防音装置は付いていませんでした。うるさいです。でも、生まれた頃からその環境で育ったのでそれが異常であることは知りませんでした。もちろん、この騒音は沖縄の米軍基地周辺の騒音被害にははるかに及ばないでしょうが、実家を出て10年以上たつ今、たまに実家に帰ると飛行機の音に驚いてしまいます。
 基地引き取りが実現した場合、その土地に住む当事者たちの問題をいかに語るつもりなのか、とても疑問に思います。「本土対沖縄」の問題であった(とされている)ものを本土の一地域の(往々にして発信力が弱い地域の)問題にしてしまうことで再び基地問題を不可視化してしまうのではないかと憂慮します。

 三つ目は日米安保や米軍基地が日本に必要だから本土でも分担しようと単線的に繋がっていくことに関しての疑問です。本当に米軍基地が必要なんでしょうか。だとしたらどれだけのどのような基地が必要なのでしょうか。米軍が必要としている基地のどれくらいを(沖縄を含む)日本が負担しなければならないのでしょうか。米軍は日本だけではなくアジア太平洋地域をひとつの地域と見て戦略的に基地を配置しているのに、日本本土が土地を差し出したところで、はいそうですかと沖縄の負担を軽くするのでしょうか。つまり、米軍基地問題は「本土対沖縄」の問題としてではなくもっとグローバルな視点が必要であると思います。

 それでもなお、「本土対沖縄」の問題は残ります。しかしそれは基地の配置をどうするのかという議論ではなく、日本に米軍が駐留することに対し問題提起する意識の違いという点が重要だと思うのです。米軍基地の問題を「沖縄の」問題と称することで本土の人間は沖縄で起こっている問題について痛みや責任を感じる必要がない「他人事」と捉えていることに関してです。つまり本土の人間だというポジショナリティに自覚的に活動をするのであれば、米軍に何も言わない、米軍の要求にただ従っている日本政府を支えていることにこそもっと痛烈な省察をするべきだと思います。日本政府を動かせるのは「日本の人」です(選挙で動かせるのは日本国籍を持っている人、活動も含めれば国籍の有無にかかわらず日本社会の構成員が含まれると考えます)。沖縄の人たちがNoを突きつけているのに、本土の人は何をしているのか。本土の人が基地を「日本の」問題と捉えNoを突きつけることほうがずっと大切なのではないかと思います。(もっと言えばアジア太平洋地域のグローバルな民衆連帯が大切だと思います。韓国や他の地域で起こっている米軍基地問題にも怒りを持つべきです。)

 つまり自分のポディションをどうとらえるのか。全ての人が「〇〇地域の人間」「本土の人間」「日本人」「アジア太平洋地域の民衆」など多様なレベルでのアイデンティティを持っており、それは常に逃げられないと同時に開かれていると捉えることが、ポジショナリティ概念で語られる内容であるのに、「本土対沖縄」の問題として縮小して語られることに深い憂慮を覚えます。

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