【序章】第1節の1 言葉には実体が無い

言葉には実体が無い

例えば、以下の様な言葉の定義があったとします。

北の定義:西の右  東の定義:北の右  南の定義:東の右  西の定義:南の右

右の定義:左の反対  左の定義:右の反対

反対の定義:逆  逆の定義:北の右の右


※複雑になり過ぎるため、実際の言葉の定義とは異なります。

※「の」の定義は省略します。

北の定義を理解しようとすると、西の定義と右の定義を理解しなくてはなりません。

まず、西の定義を理解しようとすると、南の定義を理解しなくてはなりません。

次に南の定義を理解しようとすると、東の定義を理解しなくてはなりません。

次に東の定義を理解しようとすると、北の定義を理解しなくてはなりません。


すると、北の定義を理解するには北の定義を理解しなくてはならないことになり、

最初に戻ってきました。この様な事は、循環定義などと呼ばれます。


今回定義した右や反対など、どの定義も循環論法に陥っています。

実際の言葉の定義では、もっと膨大な量の言葉が複雑に絡まり合って、巨大な虚像を作り上げています。

もちろん、言葉、定義、実体、虚像といった言葉自体にも意味は無く、究極的には音の羅列に過ぎません。


このように、言葉には実体がありません。しかし、あらゆる論理や思考は言葉に依存しています。

いくら厳密に法律を定義しても、裁判の判決に頼らなければ、有罪か無罪か分からない事があるように、

全ての言葉は「曖昧でぼんやりしたもの」です。


言葉と言葉による派生物を過信しない事も必要ではないでしょうか。


【序章】第2節の1 哲学の限界

哲学の限界

人間のもつ全ての観点(感情、思考、五感など)は、

人間の設計(脳の設計、DNAの設計など)に依存しています。

設計外の生き方(自分の観点を使用しない生き方)は選べません。




言葉には実体が無い』で述べたように、言葉は循環定義のため実体を掴めませんが、

観点「思考」は全て言葉に依存しているため、言葉は使用せざるを得ません。

よって、言葉を使用することによる虚構性は許容する他ありません。


また、言葉を使った論理は無限後退のため、根拠のある根源理由が存在し得えません。


人間は死ぬまで「ずっと何も考えない事」はできません。

「生きる」か「死ぬ」かは、必ず選択しなければならず、多くの人は「生きたい」と思います。

「生きる」を選ぶと更に無数に広がる選択肢を選ばなくてはなりません。

言葉や論理に意味が無いとしても、選択肢を選ぶための根拠が人間には必要なのかもしれません。


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