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冷やしnote始めました。

姓は七五三、名はかずら。七五三かずらと申します。

かずらと呼ばれるのは慣れてません。少し照れくさいです。七五三(なごみ)と呼んで頂けたら一番心が楽です。よろしくお願いします。

ツイッターのような雑踏ではなく、一対一で静かに文章で対話ができる場所が欲しくて、始めちゃいました。ノート。

長年ツイッターで十分だろう、どうせブログ書き始めても続かないだろう、なんて思っていたのですが、少し心境が変わる出来事があったのでここをキャンプ地とすることにしました。

まあ何かと申しますと、ここ一ヶ月の間に、私の書いた文章を褒めて頂く機会が何度もあったからなんですね。

オフ会中にツイッターのフォロワーさんたちから。高校から付き合いの続く親友たちから。そしてなんと求人に応募した会社の方にまで。

「なごみさんのあの小説、めっちゃ良かったです」

「文章が書けるのって本当にすごいことなんですからね!?」

「なごみの言葉をツイッターで無料で読めちゃうの、いいのかなって思う」

「商品のレビュー書いたら絶対売れると思うよ」

「人を惹きつける文章だと感じました。」←私の長々とした志望動機を読み込んだ上での懇切丁寧なお祈りメールの序盤の一文

これマジで全部ほんとに言われました。嬉しかったです。言ってくださった方、これ見てるかもですね。本当にありがとうございます。

もともと文章書くのは好きです。大好きです。読むのも好きです。読んで噛み砕くことも好きです。噛み砕いて飲み込んだものを自分の言葉で表現することも好きです。つまり読み書きにおける一通りのプロセスは全部好きです。考えたがりなので、性に合っています。

文章に限らず、自己表現に属するものは大抵みんな好きです。歌も好き、楽器も好き、絵も好き、漫画も好き、図工も好き、カメラも好き、ファッションも好き、演技も好き。なんならダンスも好きです。そして、割とどれも人並み以上に出来ます。えへ。

ただ、ステータスが割と均等に分配されているバランスタイプなので、どれか一つに特化しているわけではないです。むしろどれも出来てしまうしどれも大好きなのでどれを一番メインにすればいいのか分からない人生です。贅沢な悩みです。全部やりゃあいいいだけの話なんですけどね。

さて、自慢はこの辺までにしておいて、文章の話に戻ります。昔は小説家になりたいと思っていた時期もありました。小学生の頃でしょうか。あの頃はよく自分の中から物語が湧いて出てきていた時代でした。

その後、悲しいことがあって、心を病んでから、あまり物語が出てこなくなってしまいました。一次創作が苦手になりました。二次創作では今でもバリバリ妄想できるし書けるのですが、二次創作しか書けないのでは小説家になるのは無理です。自分が何を表現したいのかも、なんだか頭の中でぼんやりしてしまって、物語を書くのが難しくなってからは、小説で食っていくという未来の景色も、水に滲むようにどんどん薄くなっていきました。

でも私、最近気付いたんですよね。具体的な物語を描くよりも、深層心理の階段を深く降りていくような、哲学的な文章を書く方が得意なタイプなんだなって。

心を病んでからの私は、「自己追求」の日々を過ごしました。何かに追われるように図書館で片っ端から発達障害や精神疾患にまつわる本を読んで、「自分が何者なのか」を判明させようと躍起になる毎日。

自分は誰なのか。その深い謎を、掘って、掘って、ひたすら深く深くへと足を進めていく作業、それを私は何か大事な、自分の使命のように感じていました。ひたすら掘り進めていった先、固い岩盤を乗り越えて、私の心のマントルに到達した時、私の目には何が映っているのか。その長い長い旅の道中で得る経験は、きっと私の糧になるはずだ……。そう信じています。

ぶっちゃけますと、このnoteに何を綴っていくのか、文章を打ち込み始めた時点では正直さっぱり何も考えてませんでした。でもまあ、こうやって書き込んでいる間に、他愛のない話だけでなく、自分の心の深くを見つめるような文章も書けたらいいなと思えるようになりました。一つ柱としてそれを掲げておきたいと思います。


こうやって静かにパソコンと対峙して、静かに言葉を紡いでいると、それだけでとても心が落ち着きますね。私にとって親しみ深いこの静寂は、私の心をなごませてくれる大切な隣人であると気付かされます。この静寂と、毎日少しずつでも向き合えていけたらいいな。

愛すべき隣人と手を取り合う、その第一歩をここに記す。

(2019.8.10)

ありがとうございます!生きる励みになります。