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今酒ハクノ姐さんおめでとう、そしてありがとう。ーー「死にたい」と「生きたい」は、コインの裏表ではない。

まずは、私の敬愛する、どん底から這い上がってきた酒クズ系Vtuber・今酒ハクノさんの魂のラップを聞いてくれ。


登録者数3万人、本当におめでとうございます。

ハクノ姐さんだいすき。これからも応援してます。




散々このnoteには死にたい、死にたいと書いてきた。今日も当然のように死にたかった。朝起きた瞬間から死にたかった。凄まじい死にたさだった。ランドセンでODをしたらどうなるだろう、と調べて、思ったような未来は訪れないことを悟って、それは諦めた。


グラブルをやろう。と思って起き上がったら、ひどい吐き気があった。何も食べていないのでせいぜい胃液くらいしか出てこないだろうとは思ったが、吐きたい時は胃が満足するまで吐かせてやる方がいいと心得ているので、冷静に髪をゴムで括ってから、シンクの排水溝目掛けて嘔吐いた。

体の内側で、何かをせり出そうと内臓が収縮してうねる感覚があったが、まあ案の定唾液(胃液?)しか出てこなかった。しばらく嘔吐いて、もういいかな、って思った。粘液が垂れ続ける口をゆすいで、嘔吐のついでに滲んだ涙を拭ってから、椅子に座って、ノートパソコンを起動させた。


新しい薬が効いてる証拠なのか、単純に栄養不足なのか、体力が落ち切ってるからなのか、いや、はたまたその全てに原因があるのか、家の中においてもまっすぐ歩くことができない。

歩くどころか、立つこともろくにできない。今日は珍しく「今ならイケる」という確信があったのでトイレ掃除と皿洗いを決行したのだが、屈んで掃除せねばならないトイレはともかく、立ったまま腕だけ動かしていればいいはずの皿洗いが、しんどくて、しんどくて、仕方がなかった。

途中何度も休憩を挟もうと思った。せいぜい10分程度の皿洗いで、だ。それくらいまっすぐ立っていられなかった。体が重くて、足が震えて、しかし結局は休憩を入れることなく全て一気に洗い終えた。

また椅子に座ってグラブルをやろうと思ったが、ゲームをやるには疲労感が勝り過ぎていた。ノートパソコンを畳んで、スマホと充電器を持って、布団に寝転んだ。寝転ぶ時も、うまくすとんと座れなくて、バタバタッと枕に尻餅をついて、毛布に手をついて、鉛のように重い体を無理矢理引きずって、なんとか横になった。

完全に動けなくなって、ぐったりした。トイレ掃除と皿洗い、合わせても30分にも満たない程度の家事だったのに。まさかほんのちょっとやっただけでここまで体が動かなくなるとは。

ウイルスだのなんだのと関係なく、私は今外を歩いてはいけない状態なのだと確信した。まっすぐ歩けないのに道路を歩いて、よろめいて、車道に飛び出て、そこに車が走ってきたら……ああ、きっと終わるだろう。


いや、そうしたら死ねるだろうか?

大怪我を負った私を、最新の医療はなんとしても生かそうとするだろう。じゃあ、案外死ねないかもしれない。

不運にも私を轢いた哀れなドライバーは前科持ちになるし、医療費だの慰謝料だの要求されて可哀想な目に遭うだろう。

……。

それなら、別にいいや。後味悪いし。

そういうのじゃないんだよ。私の死にたさっていうのはさ。




死にたいんだか、生きたいんだか、よく分からない。ああ、いや、死にたさは変わらない。それは変わることはない。

「”死にたい”の真意(裏側)は“生きたい”である」……などという言説があるが、私はあれは本当の死にたさを知らない人間の考えた妄言だと思っている。


私が死にたいのは事実である。

生きたさの裏返しではなく、純粋に死にたいのである。



だけど、きっと似たような死にたさを経験して、それでも諦めなくて、なんとか這い上がって、ようやく陽の目を見だした人の、心からの歌を聞いた時。


私は泣いた。

私も光の中へ行きたいと泣いた。


「私も生きたい」と、泣いてしまった。



私は生きたいのか。

こんなに死にたいのに、生きたいのか。

こんな、何もできない体になっても、夢を諦められないのか。前へ進みたいのか。

こんなに死にたいのに?

こんなに死にたいのに?



「死にたい」の裏側に「生きたい」があるのではない。

「死にたい」と「生きたい」は表裏一体の存在ではない。背をぴったりとくっつけあっているように見えて、その実、そうではない。奴らはコインの裏表ではないのだ。


生と死はそれぞれ独立している。

生を司る神と、死を司る神がいるように。

二者には各々の自我がある。故に、「死にたい」と「生きたい」は両立し得る。二者は同一ではないから。


私は今、己の中の死神にしか心を開いていない。

その隣にいるはずの再生の神の姿は、どうにもぼやけてしまって、よく見えない。しかし、そこには必ずいるはずなのだ。私の「生きたさ」を司る存在が、確かに、そこに、いるはずなのだ。

私が見ようとしないから、再生の神の姿を見ることは叶わない。全ては私自身の意志にかかっている。

再生の神は己からは語らず。ただ私が自らを見るだけの勇気を持てるかどうか、見極めているところであろう。



……。

何が言いたいかって?


私ね、大好きなハクノ姐さんの魂のラップを聞いたら、私の中の「再生の神」の姿が、ほんのちょっとだけ見えたんですよ。ほんの指先だけ、とかだけどね。

私にとって許せない、いや、「ある」と思っては何かが崩壊すると思っていた、「生きたい」という感情の片鱗が、ようやく、ちょっと見えてきたんです。


まだまだ死にたさは変わらないけれど。

だからと言って、私の中に確実に存在していた「生きたい」という感情を見捨てることもできない。


死にたいけど、生きたい。

実に「宙ぶらりん」な状態ではあるが、たとえ宙ぶらりんでも、この地獄の世界を、もう少しだけ生きてみよう。

死にたさを尊重したまま生きる道が、目の前に拓かれる時が、私にも来るかもしれないのだ。


もう一生来ないと思っていた朝日の予兆が、ヒヨドリの鳴き声が、遠くに、はるか遠くにあるのが見えた。

闇は深い。夜は長い。朝日の光もまだまだ遠い。

だけど、いつかそこに辿り着けるのだろうか。



「生きたい」私を、決して殺さないと決めた。

それが、今日歩んだ小さな一歩。

ありがとうございます!生きる励みになります。