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創価学会員はアーリーアダプターである。

創価学会員はアーリーアダプターである。
日蓮大聖人曰く

「広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱えんことは、大地を的とするなるべし」
(新版日蓮大聖人御書全集1791ページ)

大地を的とするとは
地球には重力があり、矢は必ず大地の落ちるので、的が大地なら
絶対外れることはないという日蓮大聖人の仏法が必ず広まるという大確信です。

長井秀和さんが街録チャンネルに出ていて
退転、謗法状態なので
黙っていては
無慈悲なので
少々語らせて頂きます。

「善に付け悪につけ、法華経をすつるは地獄の業なるべし」(新版日蓮大聖人御書全集114ページ)

動画を見て感じたのは一切日蓮大聖人の仏法は語らないのですね。

日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の仏法が前代未聞の未曽有の凄い仏法だからこそ、それを持ち、広めた法華経の行者達の大将である戸田先生、池田先生が凄いのですよ?


二代戸田城聖先生と三代池田大作先生を侮っている発言がありますが
その内容が嘘であれ、事実であれ謗法の罪は重いのです。
それは知らなかったでは済まされません。

法華経の現代語訳を見つけましたので挙げておきます。

『妙法蓮華経普賢菩薩勧発品 第二十八

もし人あって、この人を軽蔑し謗って、『御前は狂人にすぎない。空しくこの行を実行してついに何も得る処はないだろう』と言ったとすると、その罪の報いとして、生まれるたびに盲目となるであろう。
 もしこの人を供養し讃嘆する者があったら、この世でもう現に果報を得るであろう。
 もしまたこの経典を受持する者を見て、その人の過ちを暴落したりしたら、例えそれが事実であったにせよ、なかったにせよ、この人は現世で癩病となるであろう。
 もしこの人を軽蔑して笑う者があったら、現世で歯がすけ、抜け落ち、唇は醜く、鼻は平たく、手足は奇型となり、両眼奇型となり、身体は臭く、皮膚病にかかり、膿を持ち、腹水病になり、短気になるなど、諸々の悪病・重病にかかるであろう。
 それ故に普賢よ、もしこの経典を受持する者を見たならば、立ち上って遥かに迎えること、仏を敬う様にしなければならないのだ」と』

出典

かく言う自分も今までの人生が千だとすると八百九十九は退転状態でした(此経難持)ので偉そうなことはいえないのですが、思春期に入るころから批判精神が強い故、両親や学会について文句や批判をしていたら帯状疱疹が出来たり、肉体も精神状態もおかしくなり、所謂自律神経失調症になり寿量品の毒気深入失本心故を身で実感しています。

自身の生命で仏法の厳しい因果律を体感実感するしかないのかもしれませんが本当の事なので言っておきます。

動画を見るに現世利益に重視するなら尚更、妙法をたもつべきです。
池田先生は、戸田先生の事業が厳しい状態になり、給料も出なく、靴下に空いた穴も繕わなければ状態の時、
『仏法真実ならば、因果の理法、これまた、厳(きび)しく、あらねばならぬ。
十年後の学会を見よ。二十年後の学会を見よ。そして、わが存在も!』
と頑張った結果、190か国地域で南無妙法蓮華経を唱える人々が現れ、500以上の博士号や名誉教授、名誉市民などの顕彰をされたりと妙法の功徳を現実に体現したではないですか!

妙法を捨てることは無間地獄(現代用語でいえば鬱病でしょうか)の行いなので慈悲の心で言わせて頂きます。
現世利益を求めるのであれば
とにかく法華経は褒めれば褒めるほど功徳まさるといわれるので、戸田先生、池田先生の素晴らしさは褒めても褒めても言葉が足りないほどすばらしいです!
宇宙中の仏様たちが善きかな良きかなと褒め称えてくれていることでしょう!

宗教について
人間は誰しも幸せになりたい、幸せに安穏に生きたいものです。
でも人間悩み苦しみが尽きません。
宗教とは何でしょうか?
そんな人間の生活上訪れる悩み苦しみを解決し幸せに生きるための方法を示すものでしょう。

私は
創価学会員の家に生まれ、小学校の折、朝、勤行をしっかりしていった日と、さぼってしまった日では愕然とした違いを感じ、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の仏法の力を幼いながら感じていました。
勤行とは、日蓮大聖人様の顕された真ん中に南無妙法蓮華経などの文字で書かれたご本尊に向かって法華経方便品と寿量品を読み、南無妙法蓮華経と唱えることです。


「およそ妙法蓮華経とは、我ら衆生の仏性と、梵王・帝釈等の仏性と、舎利弗・目連等の仏性と、文殊・弥勒等の仏性と、三世の諸仏の解りの妙法と一体不二なる理を、妙法蓮華経と名づけたるなり。故に、一度妙法蓮華経と唱うれば、一切の仏、一切の法、一切の菩薩、一切の声聞、一切の梵王・帝釈・閻魔法王・日月・衆星・天神・地神、乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天、一切衆生の心中の仏性をただ一音に喚び顕し奉る功徳、無量無辺なり。
 我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉って、我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給うところを仏とは云うなり。譬えば、籠の中の鳥なけば、空とぶ鳥のよばれて集まるがごとし。空とぶ鳥の集まれば、籠の中の鳥も出でんとするがごとし。口に妙法をよび奉れば、我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給う。梵王・帝釈の仏性はよばれて我らを守り給う。仏菩薩の仏性はよばれて悦び給う。されば、「もししばらくも持たば、我は則ち歓喜す。諸仏もまたしかなり」と説き給うは、この心なり。されば、三世の諸仏も妙法蓮華経の五字をもって仏に成り給いしなり。三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生皆成仏道の妙法と云うは、これなり。
 これらの趣を能く能く心得て、仏になる道には、我慢・偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱え奉るべきものなり。
    日蓮 花押」(新版日蓮大聖人御書全集703~704ページ)

三世の諸仏とは、三世=過去世、現世、来世
つまり時間的表現でいう永遠の仏たちということです。
釈尊も大日如来も阿弥陀仏も薬師如来も阿閦如来もみんな
何を悟ったかと言えば妙法蓮華経を悟ったのです。
だから南無妙法蓮華経と唱えると唱題行という行為は、空間的表現で宇宙中の仏を讃嘆しているという尊い、最高善の行為なのです。
自分の中に潜在している仏性(仏の性分)が「必ず!」顕れるのです。

「釈迦如来・五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)の当初(そのかみ)・凡夫にて御坐(おわ)せし時我が身は地水火風空なりと知(しろ)しめして即座に悟を開き給いき」(新版日蓮大聖人御書全集720ページ)

我々、人間は本来宇宙生命と一体不二な仏なのです。(宇宙即我、我即宇宙、瞬間即永遠、永遠即瞬間、一即一切・一切即一)
生命を貫く因果の理法により、善い行いには善い結果と報いがあり、悪い行いには悪い結果と報いがある。善い行いは幸福を感じ、悪い行いには不幸を感じる。心の不思議を説いたのが仏法です。

中途ですがこのまま投稿させてもらいます。

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