想像という信施
こういう時期(有事)だからなのか、
助け合いの精神が発揮されようとする場面によくでくわす。
どこで何を贈っただ、
だれに何を助けただ、と。
へぇ、確かに素晴らしいことです。
でも、そんなボランティア精神が
発揮されるのを横目に、
何も出来ずに卑屈になる人の思い
「ぼくはなんにもできないよ・・・」
も、ちらほらお聞きします。
うーん。
ところで、何かを施すことことには、
狂施と信施がある、と白隠禅師は戒めます。
─────────────────────────────
もし布施を行うのだといって、多くの僧に供養したり、乞食を集
めて毎日施しをして、そのあげく、わが田畑を売り払い、妻子も
養うことができないようになるならば、それは狂施とういうもの
であり信施ではありません。多くの金銭や食糧を無駄にするだけ
で、何の功徳もないでしょう。心底から発起し、自ら倹約に努め、
そうやって出たみずからの余剰分を、乞食に分けてやるならば、
それこそ本当の信施というもので、功徳も無量となりましょう。
『夜船閑話』 白隠
https://ux.nu/MUYmw
─────────────────────────────
もしお金がなくったって、
身を切るものがないと、
べつにいじけることもないはずで。
例えば想像することだって、
人のためにも社会のためにもなりえる、
かもしれないわけです。
─────────────────────────────
社会がいろいろな困難を抱え込んで息詰まっているときに、社会
の別のあり方を構想するというのも、やはり想像の働きである。
『 想像のレッスン 』 鷲田清一
https://ux.nu/2nvf5
─────────────────────────────
良い世界を構想し、
善言美詞にてうかぶ想像は、
きっと良い方向にかわるきっかけ。
今日も気楽に気持ち良いこと、
かんがえますか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?