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【28日目】空転し続けること

ー執筆者 新井ー

 我々は圧倒的な袋小路にいる。少なくとも、このnoteを執筆している3人は、だ。最近の議論は専ら、「学ぶこと」「学校教育」等の議論がなされている。

  Takaは「自分に子供ができたら、子供に勉強しなさいと言うべきなのか。」という問いを設定し、「自分のための勉強して、自分と向き合う時間を作ってほしいし、私もそれを目指している。」と答える。しかし、同時に塾で接する子どもたちにおいては、勉強が他のコンテンツと等値(というよりむしろ下)になっていることも自覚している。故に、「そんな中で新しい知を獲得していくことの楽しさをどうやって伝えていけばいいのか。」と問うが、明確な答えは示されないままに思える。 

 國井は―極めてスキゾ的noteを残し―一方ではアイロニカル(あるいは挑発的)に僕のnoteに応答し、一方ではAdoの『うっせぇわ』がCM起用により「いつか思い出して後悔する中二病の歌」になってしまったことに対して、「この社会にはもう、思想はパワーを持たないのかな。「うっせえわ」と題された一人の女子高生の叫びは、極めて静かに消えていってしまったよ。」と言う。(例のCMはAdo本人が歌っているわけではないことを留保しておく。)

  では、どうすれば良いのだろうか?何を我々が―他でもない我々が―施すべきなのか?YouTubeしか見ない中学生に対して何をなし得るのだろうか?大人への対抗歌が資本のロジックに飲み込まれることに何ができるのだろうか?大変残念だが、少なくとも僕はこれらの理想的な問いに対して、「語りえない」ので、「沈黙」するしかないのだ。僕に語り得る精々のものとしては、自身は純粋に(それは幼少期や、中高の学習を含め)、極めて純粋に「知ること」への楽しみだけで、人よりもほんの少し勉強しただけであるということ。そして、より「面白い」ものがあればすぐにそちらに没入するであろう。(なぜなら全ては等価なのだから。) 

 だから、その重要性や楽しさを他の人に伝えようとはあまり思わない。そして、現状の「何か」がまずいのでそれを変革すべきだとも。また、少なくとも、「15年近く日本型の学校教育に浸かってきた大学生」3人がここにおり、そしてその3人皆が何かしら現状の「学ぶこと」「学校教育」について違和感を持ったこと自体が、「日本型の学校教育」の成功と、逆説的に述べることもきるのではないだろうか。その点で、僕は「マイルドなニヒリスト」であると思うし、國井の言葉を借りれば、各人の「空転」は止まることなく各人が「空転」し続けるべきであると思う。以上の意味で、「空転(=車輪は動くが前には進まない)」という、まるでデリダがプラトンの『パイドロス』を用いて明らかにした「ファルマコン」の両義性を指し示すような極めて脱構築的な語の選定は極めて適切であると言える。 

 故に、國井の空に投げられた問い、「この社会にはもう、思想はパワーを持たないのかな。」という問いにははっきりと、以下のように答えることができる。「そうだ、この社会に思想(=勉強)はパワーを持たない。全ては資本のロジック(=CM, 就職...etc)に飲み込まれる。」そしてこう続ける。「しかし、思想(=勉強)は個人には―紛れもない「個人」には―パワーを与えるだろう。」と。そしてそれを僕は自身を以て証明することにしたい。(僕の実存的な悩みを解決してくれたのも多くの場合、思想の力なのだから。) 

 そしてまた、「この社会に思想が力を持ってた」時代、学生が大人たちに本気で「うっせわ」と叫んでいた時代を我々は歴史においてよく知っている。それが先のnoteでも取り上げた1960年代後半〜70年代の学生運動の時代だ。彼らは革命の思想を信じ、アメリカのお膝元で「エコノック・アニマル」と化した日本にノーを突きつけた。しかし結果は?それはお遊びの革命軍、連合赤軍の身内リンチとあさま山荘への立て篭もりで終わった。安田大講堂で息巻いていた東大生の多くは普通に大企業へ就職し、中にはもちろん、公務員になった学生もいる。(革命はどこへ?)世間一般の多くの人は、彼らを「敗北」したのであり、「無責任」であると総括した。しかし、僕は、これらの批判は全く的をはずしていると思う。彼らの多くは自身の生きるという本質的な「空転」に気づき、現実と折衷したのだ。その点で大変賢く、また「革命」的ですらある。そしてまた、我々はこれと対比する形で、彼ら東大生と安田大講堂で議論した三島由紀夫の最期も知っている。彼は、全共闘とは違い、現実と折り合いをつけることができず、虚構(=天皇)の内に自害した。だからやはり、繰り返すが、理想的な問い(=革命は如何に可能か?YouTubeしか見ない中学生に対して何をなし得るのだろうか?大人への対抗歌が資本のロジックに飲み込まれることに何ができるのだろうか?)に関しては、少なくとも僕自身は、全共闘解散後の東大生のように、「沈黙」することしかできない。 

 結論めいたことを述べれば、「社会に対して何が有効か?」という問いは、僕自身には大きすぎるテーマであり、答えることができない。故に、僕個人が「僕のために何ができるか?」という―極めて自閉的な―問いに対しては「思想(=勉強)が有効である」と答えることができる。(國井の僕に対する優柔不断に思える態度への鬱積はこう説明すれば理解可能であるだろうか。) 

 しかし、ここで、ベタのレベルで、具体的な施策を講じてみようと思う。(恐らくこの「学ぶこと」「学校教育」等の議論は抽象化すると各々の理想論になってしまい、皆煙を巻く議論になりかねない。)僕が問題としているのは、別に日本人の英語力でも、暗記型教育でもない。僕が問題にしているのは、「学び直し」ができないことだ。なぜ中学生が、高校生が暗記型の受験で良い高校、大学に入学し、大学生が就職活動に勤しむか。それは、少なくとも我々の生きる日本の社会が「やり直し」がしづらい社会だからだ。(実はここにおいて、かつて取り上げた少年革命家ゆたぼん氏の意見とその反論意見が同理論(=ライフコースが一過性のものなので学校に行け/行かない)のパラドックスに出会うことになる。)個人として、英語を今より学習したいと思えば、中高の暗記教育に異議を覚え、「学wissenschaft」に触れたいと思えば、いくらでも学校を転校し、会社を休職あるいは退職し、「学直し」のできるような仕組みを作るべきであると感じる。そうでなければ、永遠に我々の社会は、純粋に「知ること」への喜びの体験を次の世代へとバトンパスできない、寂しい社会になっていくであろう。 



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