つづき:個別共存主義のベクトル:『揉めないこと』の極大化は、分断と対立の時代を超えるのか

これについて。

一応、「ここ突かれたらぶっこ抜かれるな」と思っていたのは、「そういう政党/政治団体があっても良い」論です。

「たくさんお金をくれたり、票を集めてくれたり、いっぱいボランティアしてくれた人の言うことを聞くよ」
「そうでない人の意見はあまり聞かないよ」

という姿勢だと、何が起きるでしょうか。

公党の意思決定が、票や金や労力で”買える”ことになる

要するに政治資金規正法で団体献金が禁止されているのと似たようなモンで、現行法が「献金(お金)」だけを規制しているのに対して、票や労力を資金と交換可能な『政治資本』として捉えた場合に、このように拡張できるのではないか、という発想なのですね。

たとえば…公党に影響力を持ちたいと考える何らかの力を持った団体が、大量に人を雇い、あくまで『自由意思によるボランティア』というテイで、その政党に大量に人手を供給して、それでもって意思決定に大きな影響を及ぼす…という政党ハックができなくもない。似たようなことを旧統一教会がやってみせたようにです。

ただそれでも、全政党がそうならない限り(=投票先の選択肢として”ハックされていない”政党が残っていれば)問題ない、という考え方もできるっちゃできると思うのです。

めちゃくちゃ極端に言えば―――超極端なたとえ話ですが―――、「ウチの政党はカネか票か労働力か、提供しない人の話は聞きません。陳情?ご意見?ご批判?ポスティング1000枚につき50文字です。頑張って!」という政党があったとしても、それがイヤだと思った時に行ける他の選択肢が存在してれば、社会全体としては別に問題ないんじゃないかと。

そうやって考えると、つまりこれは選択の問題に還元できるわけです。「どっちもありだよね」「じゃあ僕らはどうする?」という話に還元できる。

…というのが、僕が事前に想定していた抜け道というか、あの原稿を書いた時に『これ突かれたら抜かれるな』と思っていた理路なんですね。


で、ここから先が、僕が「想定していなかった」けれど、言われて納得、いいや、それどころか『こういう発想があるのか』と思ってしまった話です。

ものすごく雑に言うと、「文句を言いたきゃまず働け」と、「働いてなくても文句言っていいぞ」と、両方が単一のコミュニティの中で否定し合わずに存在できる可能性は本当に無いのか?という視点なんですね。

その『否定し合わない共存可能性が存在するかもしれない』という視点そのものを僕は持ってなかったので、完全に発想の外側からの食らったパンチだったのです。そこに気付かせて頂いた方が鍵垢なので、詳細は控えますが。

なんというか、そこに可能性を見出そうとする心意気そのものに驚かされたというか。非常に感心してしまったんですね。それと同時に、『対立と分断の時代を超えるものは、たぶんこういう、相容れないものを相互否定せずに共存の道を模索する心意気なんじゃないか』と、ハタと思ってしまったのです。

その心意気に惚れてしまってね。


ここから先は、僕の勝手な想像です。


今、世界中のいろいろな国で、『対立と分断』が問題になっています。様々な社会問題に対して、互いに相容れない考え方や価値観を持つ人々が対立し、分断が深まっていく。そういう問題は、特に欧米方面からよく聞こえてきます。

その『対立と分断』の時代の中で、人々は何を思うのか。
素朴な感情として『もう揉めたくない』というか、対立そのものへの忌避になるんじゃないかと想像したんですね。

対立回避の極大化:『合わせる』ことの極小化ベクトル。
あるいは、個別共存主義とでも言おうか。

結局、なぜそこで対立が起きるのかというと、前提として「合わせる」という暗黙がある。その「合わせる」を、社会のあらゆる構造の中において極小化する。国家単位、地域単位、組織単位のあらゆる構造の中で。構造体そのものを必要最小限にするというか…なんというか。それによって、『誰も否定されない』『揉めない社会』を希求する。まあ、そんなイメージです。

そういう時代のベクトルがパっと見えてしまったわけです。
この『合わせる』ことを極小化する時代のベクトルを指して、本稿では『個別共存主義』と呼びたいと思います。

思想的な定義については、もっともっと掘り下げる必要があると思うけれど…エゴイズムよりはインディビジュアリズムにかなり近い。けど、インディビジュアリズムを土台に、ソーシャリズムとパシフィズムを加えたような雰囲気。


まあ平たく言ってしまえば『戦争はやめようよ?ね?の言論バージョン』みたいなものなので、それこそ「綺麗事」ではあるでしょうし。『誰も否定されない』『揉めない社会』というフレーズにむず痒さを感じる部分は、個人的には無いと言えば嘘になります。書いていてムズムズする。

ただ一つそれでも無視できないなと思ったのは、以前、ウチのChatGPTさんが予言した『政党政治の崩壊』シナリオを思い出したからです。


『政党政治の崩壊』シナリオ。それを見た時は、あまりに荒唐無稽に思えてしまったのだけど。まあともかく書いていきましょう。

今、大きく流れを見ると、既存政党の支持率が落ちていって、投票率が下がって、そして「支持政党なし」が増えている。そういうトレンドがあると思います。あくまで大きく見るとです。このトレンドの先をどう考えるかと、ChatGPTさんに聞いてみたんですね。

すると、「既存政党への不信感の高まり」から「新興ポピュリズム政党の台頭」、そしてその先に『政党政治の崩壊』という流れを、ChatGPTさんは予想してみせたわけです。

―――『政党』という枠組みそのものの信頼性が低下する。テクノロジーの発展により、個々の政治家は政党に帰属せずに政治活動や選挙活動を行うことが可能となる。結果的に、『無所属のほうが選挙に有利』みたいな状況が進行し、政治家たちは次々と政党を離れ、政党制が自然崩壊する。

まあ、雑に言えばこんな感じです。
「テクノロジーの発展により」というあたりが、なんともChatGPTさんっぽいなあと思うわけですが。

しかしその後、自民党の裏金問題の発覚、政党支持率の変動、新興政党の台頭…と、全部ではないにしろ、ChatGPTさんが”予言”したことが、なんかこうリアルになってきてんじゃん?と。


しかし、考えてみればです。政党政治の崩壊は、『個別共存主義』の政治への実装と捉えることができるんじゃないのかと。

政治家が全員無所属になり、政策もスタンスも一人一人”自由”になれば、多様な価値観や考え方を共存させ得る幅が生まれるんじゃないのかと…ぼんやりとしたイメージに過ぎないのですが、そういうベクトルが見えてしまったんですね。


地域コミュニティの縮退と、”しがらみのない”都市部への人口流失。
「あえての非正規」、ギグワーカー、フリーランスの増加。
『やりたいことで、生きていく』。

こういった流れも、考えてみれば『個別共存主義』を指向するベクトルと言えなくもない気がするし。

仲良く揉めずにやっていける仲間内だけの小規模コミュニティでまとまって、その小規模コミュニティすらも流動的に形態を変えていく。そうした流動的な無数の小規模コミュニティがパラレルに存在している、多島海世界的な社会構造。

それは言わば、『分断と対立』から『分断してても別に困らない』みたいな方向なのかもしれない。


さて、考えるのはここまでにしておこう。
意外とスケールのデカイ話になってしまった。

それを望むか望まないかはともかく、長期的なスパンで…数十年か、百年か先は知らないけれど、『政党政治の崩壊』シナリオも決して荒唐無稽な話ではないんだろうなあ、と腹はくくっておこうと思う。その激動の過渡期をどう渡っていくかだね。