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ドイツ歌曲の楽しみ Freude am Lied㉟

生のコンサートでは“今まさにここで生まれる音楽”を共有していただける喜びがあります。その時間を1曲1曲切り取って“今まさに”のひとかけらでもお届けできたら!とお送りするドイツ歌曲の楽しみ Freude am Lied…

35曲目はシェーンベルク!…ひとかけら、届くかな?

シェーンベルク Schönberg (1874 - 1951)作曲
4つの歌曲 作品2(4 Lieder Op.2)より
森の日差しWaldsonne
                                                          ソプラノ 川田亜希子 ピアノ 松井 理恵

褐色の、ざわめく夜の中に
一筋の光が差し込む、
緑色と黄金色をした光が差し込む。
 
花々や草原がきらきら光る、
森の小川も歌いながら踊りながら光る、
そして思い出たちも。
 
とっくに消え去っていたのに、
再び金色に目覚める、
きみの陽気な歌に目を覚ます。
 
そしてぼくは目にする、きみの金色の輝く髪を
きみの金色に輝く瞳を
緑色の、ささやいている夜の中で。
 
まるで野原で きみの側に横たわっているようだ、
そしてぼくは再び耳にする、きみが ぴかぴかに光る牧笛を
青空にむかって吹いているのを。
 
褐色の、ざわめく夜の中に
一筋の光が
金色の光が差す。


 劇作家ヨハネス・シュラーフJohannes Schlaf(1862-1941)による詩。

 12音音楽の創始者として名を馳せたシェーンベルク。これは1899年作曲の最初期の作品で、後期ロマン派様式のもの。ウィーン出身の彼らしいウィーン風小唄の様相です。
 題名の「森の日差しWaldsonne」のWaldは森、Sonneは太陽です。二つの単語をつなげた複合語です。この題名からは、詩の中にでてくる「夜」が本当の夜ではなく、昼なお暗い森の中のことを表していることが見て取れます。濃い緑の樹々から差し込む木漏れ日は、金色に褐色に、そして緑色に輝いて見え、その光が恋人のブロンドの輝き、瞳の輝きに思えて、忘れていた甘い記憶がみるみると蘇る…。そんな歌です。
 ピアノパートは寄せては返す波音のように森のざわめきを奏で、歌はその波間をただよう木の葉のようにメロディラインを上下させ始まります。短い間奏はチロチロと光る木漏れ日です。光を追って足元に視線を落とすと、そこには草花や小川…そして「思い出Erinnerungen」が横たわっているのです。続くピアノパートは時の扉をそっと開くようにリタルダンドをして…次の瞬間には思い出の中に飛び込んでいく様子をア・テンポで表しています。金色に輝く恋人との数々の思い出が風のように方々から吹き寄せます。その吹き溜まりで音楽は歩を緩め…。すると突然、目の前に恋人の瞳が出現し、音楽は驚きと喜びで堰を切ったように新しい流れを奏で始めます。歌声部のメロディは切ないほど跳躍し、胸の高鳴り(胸キュン)を表しています。恋人を抱き寄せようとしたのでしょうか、けれども手は空をきり、耳には恋人の声が遠く響き…。最後の節は第1節とほぼ同じフレーズで歌われますが、「光が差す」と訳した動詞“flittertひらひら飛ぶ”の一音だけ、暗い響きに変えられています。その音は去りかかっている思い出を心に留めるピンのようにテヌート気味に歌われ、全ては過去のことと納得したようなメロディラインを作りだしています。後奏は思い出が去っていくのを惜しむかのように、何度も手を振って別れを惜しむかのように響き、曲は結ばれます。
 

 皆さんは山歩きをされますか?私は極たまにですが、パラグライダーのテイクオフまで30分くらい時間をかけて山登りをします。森の中の細い坂道をぐんぐん歩きます。聴こえるのは自分の息遣いと風の音くらい…。森の中の空気は心も体も優しく日常から隔ててくれます。歩き終わった後は本来の自分に戻れていて…。今で言うところの「整う」といった感じでしょうか? 身体のほうは汗だくで、日焼け止めもどろどろに落ち、息も上がってひぃひぃ言っているので、全く整っていないのですが…。それでも山歩き、森歩き、お勧めです。

以下に以前この曲の入った曲集を歌った際書いた解説の一部を張り付けてみます。詩人&作曲家について知ることは、曲の“生まれ”を知る一つの手段。“生まれ”を知ると、その曲との距離がぐんっと縮まって仲良くなれるのです。​

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アルノルト・シェーンベルク Arnold Schönberg(1874年9月13日生 1951年7月13日没)
 ウィーン生まれ、両親をユダヤ人に持つがキリスト教徒として育つ。十二音音楽の創始者。弟子のベルク、ウェーベルンと“ウィーンの三位一体”と称され、後期ロマン主義から現代音楽へ大きく歩みを進めた立役者。父親を早くになくし、苦しい家計のなか、独学で音楽を学ぶ。1894年20歳のときに2、3ヶ月間ツェムリンスキーに対位法を学んだのが唯一の音楽教育だった。ツェムリンスキーとはその後も彼のオペラのピアノ編曲をするなど音楽活動を共にし、1901年には彼の妹マチルデと結婚して、その友情は終生続くことになる。ウィーンで無調音楽、十二音音楽と革新的な作曲技法を打ち立てていった彼の音楽活動は、1933年のドイツ・ナチス政権の誕生と共にアメリカに場所を移す。(その際ナチスのユダヤ人政策に反対の意を表してユダヤ教に改宗している。)亡命後は精力的に作曲活動をしながら、ボストンの音楽院やカリフォルニアの大学で作曲を教え、ジョン・ケージなど優秀な弟子を排出した。1940年にアメリカの市民権を取得、苗字をSchoenbergと自ら綴り、ショーンバーグと呼ばれた。1951年、喘息発作のためロサンゼルスで他界。ヨーロッパに帰ることはなかった。
 彼の作品で作品番号の付いているのは50あまりで、そのうち半分が声楽作品。シュプレヒシュティンメ(リズムと音高はあるが語るように演奏する手法)で書かれた歌曲集《月に憑かれたピエロ》、詩の朗唱を室内楽で伴奏する形式で書かれた《グレの歌》などでは、別の次元で、詩と音楽の融合がされている。
4つの歌曲 作品2/ 4 Lieder Op.2 (「森の日差しWaldessonne」が入っている歌曲集)1899年作曲。この歌曲集は師であり親友であったツェムリンスキーに献呈されている。

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