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ドイツ歌曲の楽しみ Freude am Lied⑲

生のコンサートでは“今まさにここで生まれる音楽”を共有していただける喜びがあります。その時間を1曲1曲切り取って“今まさに”のひとかけらでもお届けできたら!とお送りするドイツ歌曲の楽しみ Freude am Lied…

19曲目はメンデルスゾーン♪ …ひとかけら、届くかな?

メンデルスゾーンMendelssohn : 春の歌 Frühlingslied Op.47-3
               ソプラノ 川田亜希子 ピアノ 松井 理恵

小暗い森の中を
優しい春の朝の時間が進み
森を通って天から
ささやかな愛の知らせが吹いてくる

緑の木々は幸せそうに耳を傾けて
全ての枝を浸す
美しい春の夢の中に
命に満ち溢れた輪舞の中に

明るい露に濡れた
一輪の花が人知れず咲く
その密やかに咲いた花は喜びに震えている
天が自分のことを思ってくれたから

秘密めいた夜の葉の中で
鳥の心を
愛の魔力が捉える
そして鳥は甘い希望を歌う


こうした全ての喜ばしい春の出来事は
天からの一言によるものではない
天の無言の温かい眼差しが
憧れを呼び覚ましたのだ

魂を押さえつけていた
冬の苦しみの中に
天よ! あなたの眼差しが 静かに温かく
春の力で私の中に染み渡ったのだ

 
 詩はオーストリアの詩人レーナウ (Nikolaus Lenau1802-1850)による。原題は「春の眼差し Frühlingsblick」。

 春の訪れを喜ばずにはいられない!と歌われる、疾走感、臨場感溢れる一曲です。ピアノパートは16分音符の急速な分散和音と8分音符の連打が1つのパターンになっていて、頬をかすめる春風と浮き立つ気持ち・弾む心の組み合わせを表しています。それは時にハープをかき鳴らすように変化し、留まることを知らない春の勢いそのものです。歌はそのピアノの上で情景を実況中継していきます。次々と繰り広げられる事象を取りこぼさないよう言葉を継いでいきますが、その甘い情景に ついうっとりと言葉を引き伸ばしてしまいます。第3節でピアノはその攻撃的ともいえる勢いを少し緩めます。第1節と第2節で歌ってきた春の情景を満足気に見渡すかのようです。これこそ変化有節歌曲の醍醐味!1番2番と繰り返され耳に馴染んできた音楽…また3番で同じものが来ると思わせておいて予告なしにふっと変化させる…。これが胸キュンポイントなんですね~。歌のメロディは1番から3番まで同じものなのですが、ピアノパートだけ3番の最初の2小節(♪1分50秒あたり)を変化させています。その変化を歌い手も味わいつつ視界を広げながら第3節を歌い始めます。それに続く「憧れSehlichkeit」という歌詞の部分でもピアノの分散和音が1番2番とは絶妙に変わっていて、より甘い響きを醸し出しています。ここでも歌のメロディは同じままですが、その香り立つ響きの変化に歌い手は誘惑され胸を膨らませずにはいられないのです。メンデルスゾーンならではのなんとも言えない魅力的な手法です。

 
 …私がこの曲を初めて聴いたのは1999年、ザルツブルグでの夏期講習会でのことでした。日本人のソプラノさんと韓国人の女性のピアニストさんがデュオを組んで受講していました。その春風そのものの演奏に感動し、興奮した感覚は今でもはっきり思い出すことができます。
「メンデルスゾーンってなんて素敵なんだろう!そしてドイツ歌曲ってなんて素晴らしいんだろう!」
 このザルツブルグ体験が私のWendepunkt転機でした。その後芸大大学院に合格(3回もチャレンジしてやっと!)、メンデルスゾーンをテーマに論文を書いて博士課程に進みドイツに留学、宝物としかいいようのない経験とつながりを得て帰国、また産みの苦しみのもと論文をどうにか提出、2008年博士号取得に至りました。1999年の皆既日食をザルツブルグでシュニッツェルを食しながら見ていた あの頃のちんちくりんな私には想像もつかない未来が待っていたのでした。


 メンデルスゾーン生誕200年の2009年にメンデルスゾーンを特集したコンサートを歌いました。プログラムノートの解説の一部を張り付けてみます↓

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フェーリクス・メンデルスゾーンFelix Mendelssohn(1809-1847) 
フェーリクス・メンデルスゾーンは裕福な銀行家の家に生まれる(1809年2月3日)。祖父はカントと並んで有名なユダヤ人の哲学者モーゼス・メンデルスゾーンである。
ユダヤ出身のメンデルスゾーン家では、ドイツ社会で生きていくための手段としてあらゆる教養を身につけるべく、当時の最高の教育が4人の子どもたち全員に行われた。優秀な家庭教師が雇われ、ドイツ文学、ラテン語、ギリシァ語、フランス語、英語、数学、図画、舞踊、体操、水泳、乗馬、そして音楽の授業が朝から晩まで行われた。その中で特に音楽は子どもたちにとって最も親しい科目で、自宅で音楽会を催し、長女ファニーと長男フェーリクスは自作曲の発表やピアノ演奏、次女レベッカは声楽、次男パウルはチェロをそれぞれ披露していた。やがてメンデルスゾーン家のこの音楽会はヨーロッパ各地で評判となり、文化人たちがこぞって訪れるほどであった。
フェーリクスは4歳のとき母親からピアノの手ほどきを受け、やがて著名なピアニスト、ベルガーに師事、9歳でピアニストとしてデビューする。10歳には著名な作曲家ツェルターに音楽理論と作曲を学ぶようになり、1825年に《弦楽八重奏曲》、1826年には《真夏の夜の夢》序曲など数多くの名曲を発表していく。1829年にはバッハの《マタイ受難曲》の歴史的再演をはたし、1833年ライプツィヒのゲヴァントハウスの音楽監督に就任、1841年ベルリンの宮廷作曲家に就任、1843年にはドイツで最初の音楽学校を設立するなど、真面目なフェーリクスらしく堅実にキャリアを築いていった。1847年11月4日、「疲れた、ひどく疲れた」という言葉を最後に急逝。姉ファニーの死から数ヶ月後のことだった。


 

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