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ドイツ歌曲の楽しみ Freude am Lied㉕

生のコンサートでは“今まさにここで生まれる音楽”を共有していただける喜びがあります。その時間を1曲1曲切り取って“今まさに”のひとかけらでもお届けできたら!とお送りするドイツ歌曲の楽しみ Freude am Lied…

25曲目はマーラー!…ひとかけら、届くかな?

マーラーGustav Mahler(1860-1911)作曲
   若き日の歌 第一集 Lieder und Gesänge aus der Jugendzeitより
春の朝 Frühlingsmorgen
                ソプラノ 川田亜希子 ピアノ 松井 理恵

花でいっぱいの枝で
菩提樹が窓をノックしている
起きて!起きて!
何をまだ夢の中にいるの?
太陽はもう昇ったよ
起きて!起きて!

ツバメは目覚め、茂みは風にそよいでいる
蜜蜂もカブトムシをぶんぶんと羽音を立てている
起きて!起きて!

それに、あなたのぴちぴちのかわい子ちゃんをぼくはもう見かけたよ
起きて、おねぼうさん!
お寝坊さん、起きて!
起きて!起きて!


詩はドイツの詩人レアンダー (Richard Leander,1830-1889) による。本名はリヒャルト・フォン・フォルクマン(Richard von Volkmann)で、レアンダーはペンネーム。著名なドイツの外科医だった。軍医として普仏戦争に従軍し、戦場で二十数篇の童話を書いて故郷の子供たちに書いて送ったというエピソードがあり、メルヘン作家としても良く知られている。

 春の朝、お寝坊さんがまだベットの中まどろんでいます。前奏のピアノの緩やかなアルペジオは、まどろみの中きこえてくる春風のそよぎを表しています。歌は菩提樹が花でいっぱいの枝を使って窓をノックするところから始まります。度々現れる「起きて!起きて!Steh' auf ! Steh' auf ! 」は菩提樹の枝が窓をたたく「ノックノック、ノックノック」という音。風で枝が様々な方向にそよぎ、ノックの音もその都度変化しています。菩提樹の枝は太陽やツバメ、蜜蜂…と魅力的なものをいくつも並べて、お寝坊さんを起こそうとしますがなかなか上手くいきません。そして業を煮やして、まるでお布団をはがすようにエイヤっと「あなたのかわい子ちゃんだっておきてるんだよ」と勢いよく歌います。いくつかのあくびのようなフレーズが続くのですが、様々な説得も功を奏さず、お寝坊さんのまどろみは続くのでした…。

 19世紀末、ウィーンで指揮者として大活躍したスーパースター、マーラーの20歳の時の作品です。初期の作品といっても、既にそこここにマーラー臭が漂っていて、特にレントラー(ワルツの原型)のリズムが現れるところなどマーラー好きにはたまらない作品なのではないでしょうか。

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↑菩提樹の花です。

 以前「世紀末ウィーン」をテーマにLiederabendを歌ったとき、マーラーの歌曲集『リュッケルトによる5つの歌曲』をプログラムに入れました。その時の解説の一部を以下に張り付けてみます。作曲家について知ることは、曲の“生まれ”を知る一つの手段。“生まれ”を知ると、その曲との距離がぐんっと縮まって仲良くなれるのです。​

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グスタフ・マーラーGustav Mahler (1860年7月7日生 1911年5月18日没)
 ウィーンで活躍した作曲家、指揮者。オーストリア帝国に統治されていたボヘミアの寒村カリシュトのユダヤ人の家に生まれる。14人いた兄弟姉妹のうち彼と弟、妹二人の4人以外は幼くして死んでいて、愛のない結婚だった両親は喧嘩が絶えず、暗い家庭に育つ。兄弟の死、乱暴な父に耐える母…、安息を求め戸外に出ると、野や森から聞こえる小鳥のさえずり、ボヘミア民謡にダンス音楽、近所の連兵場からはラッパが響く…。これらの無限に尽きぬ自然の音が幼いマーラーの心身に浸透し、音楽創造の源になったことは後の数々の作品から聴いて取れる。おもちゃのアコーディオンを手にしたのをきっかけに、ピアノを弾き始め、15歳でウィーン音楽院に入学、18歳で作曲賞を受賞し卒業する。その後ヨーロッパ各地の歌劇場建築ラッシュと相まって、マーラーは各地で指揮者としてキャリアを積んでゆく。そして1897年にウィーン宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)、そしてウィーン・フィルハーモニーの各首席指揮者となり、ワーグナーとモーツァルトの作品を中心に、斬新な演出と舞台装置によってオペラ上演にあたり、大指揮者の地位を不動のものにした。作曲は、劇場のオフシーズンの夏にシュタインバッハのアッター湖畔や、ベルター湖畔のマイヤーニッヒに作曲小屋を建てて、まとめて創作していた。ウィーンでは音楽家だけでなく画家のクリムトを初め、様々な文化人と深く交流し、世紀末ウィーンの中心的人物となった。1902年には風景画家シントラーの娘アルマと結婚、マーラー42歳、アルマ23歳の3月であった。ウィーンでのマーラーの活動は、彼の完全主義、目的を追求するにあたっての一徹さが災いして、問題続きであった。ついに1907年、10年間のウィーンでのキャリアに終止符を打ち、メトロポリタン歌劇場の音楽監督としてアメリカに活動の拠点を移した。休暇の度にヨーロッパにもどり、イタリア国境に近いトブラッハの山荘で創作活動をし、1907年に《交響曲第8番「千人の交響曲」》、1908年には《大地の歌》を完成させている。1909年にはニューヨーク・フィルハーモニーの指揮者となる。1911年2月アメリカで感染性心内膜炎を発症、無理をしてウィーンにもどるが、5月敗血症のため、50歳の人生を終えた。
 マーラーは若い頃の習作を別とすれば、ほとんど歌曲と交響曲しか作曲しなかったといってよい。しかも歌曲の多くがオーケストラ化され、あるものは交響曲の楽章となり、またあるものはメロディーやモチーフとして交響曲の中に様々な形で転用された。マーラーの歌曲は彼の音楽世界の集大成といえる。


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