noteにまめにあげれないからと、メモに打ち込んでた日記

毎日が平穏で穏やかなのは良いことで、今の毎日に大きな不満はないものの……なんだかもう少し輝きを得られる刺激を増やしたい。

仕事から帰るとごろりと横になり、スマホでポイ活しつつアームに設置したアイパッドでYouTubeを起動して好きなチャンネルの動画が流れる、幸せでありだらけたひと時。

ポイ活の中で稼げるものとそんなに稼げないものがあるので、後者のアプリは削除したほうがいいのでは?と思うときもあるし、実際多忙な時はそのアプリのポイ活は諦める。

それでもついやってしまうのは、お絵かきしたりTRPGのシナリオ作りと違って少しであっても、すぐに成果が手に入るから。

目先の利益につい飛びついてしまうようにも思えるけど、この場合の成果はお金になるポイントではなく、脳への刺激。

ソシャゲやギャンブルよりは小さな刺激でも、1人で黙々と作業し続け、完成しても望む刺激が得られる保証はない創作活動より、確実に得られる刺激の方に心が向いてしまいがちなのは、私が刺激に反応する生き物だからだろうか。

この小さな刺激は、現実で物を購入する事ができるものと交換できて魅力的なのだけど、自分で何かを作り出す時に感じる刺激が足りない。

その刺激は、輝いているように眩しくて、身体のうちからもっと創りたい意欲が湧き出てくる。

仕事の疲れから楽な方を先にこなしてしまっても、私はやはりあの輝く刺激もどうにかして得るために色んな事を考えて、家の断捨離をして清々しい気持ちになったり、作ったことない料理を完成させて……こっちも輝く刺激だったが、違う。

私は作り出し生み出しつづけたい。

そのために、ペンを握るのです。

そうメモしたのが4月末。

今は5月も中盤。

他の人にとっては小さい、私にとっては大きな発見があったりして(私は耳で情報とろうとすると人工的高音ほど疲労する、とか、黙読の速さが思ってた以上に早い方とか)自分のことでもまだ気づいていないことあるのに驚愕と楽しみが湧き出します。

6月になった。
ジャーナリングというのをやってみてる。
学生時代に私だけ行けなかったのが悲しかったのではなく、知り合いが誰もその事を気にかけもしなかったのが悲しくなったのだと再認識。
ただ、当時の私が彼女らがわかりやすい形でちゃんと自分の気持ち、彼女らともっと交流をもちたいと意思表示できていたかというと、正直疑問が残る。
もっと、私はあなたに興味がありますと声をあげていけたら。
少なくとも今は、昔よりは意識できてるから、繰り返していって良くなってることでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?