弟が入院した時の話
ようやく心が落ち着いてきたのか、なんとなく長い文章を書いてみたいと思うようになったので。
今日は舞台でもなんでもなく、ただの思い出語り。
ネットで知るだけのよそ様のお子さんが入院した記事を読んで、大変そうだな……とハラハラするし、私が仕事で関わってきたお子さんの裏側では、親御さんはこういう気持ちになるんだな、と思いながら記事を読ませていただいていて、私には入院は縁がないからなあ……とずっと考えていたのだけれど、ふと思い出した。
私にも弟が入院して大変だった時期がある。
いや、私が小学1年生だったかそこいらの話だったので、私自身には「ある日突然、弟が入院して、母があまり家に帰ってこない代わりに、新幹線の距離の遠方から、母方と父方の祖母が交代で家にいたことがある」程度の記憶でしかないけど、今、大人になって、いろんなことを知るようになって、母はあの時、本当に大変だったんだろうな……と思う。(今となっては確認するすべもない)
でも、なんとなく思い出なので。
いつか私が何も思い出せなくなった時のために書いておこう。(あとリハビリ)
私には弟が二人いる。
今日はその二人目の弟の話。
5つ年下の彼は、生まれた時から落ち着きがなく。
母譲りの色素の薄いふわふわサラサラの猫毛の髪をしたサルみたいな落ち着きのないガキだった。
おそらくきちんと診断すればADHDの診断がつくレベルのお子さんだったのだと思うのだけれど、何せ私たちが生まれたのは、ずいぶん前のことなので、「ADHDという診断がつく」ということが一般的ではなかったし、今もなお、なされていない。でもまあ、それくらいエネルギーが有り余っていたお子さんだった、というイメージ。
そんな彼は、
①母が私の小学校にPTAのお仕事で来るのについてきたと思ったら廊下で寝る。(「あんな埃だらけのところで寝るなんて信じられない」by母)
②勝手に家から出て、マンションの外壁塗装のお兄さんと仲良くなって、壁の一部を塗らせてもらってた。(謎の人との距離とのつかめなさ)
③買い物中に勝手にどっか行ったと思ったらおもちゃ売り場かお菓子売り場にいる(どっかに連れ去られなかったのはただのラッキー)
etc……etc……
今だったらアウトなこといっぱいあったんですけど、まあ、「元気なお子さん」だった。
その中に
④車のにおいが大嫌い。嗅ぐと頭が痛くなる。
(感覚過敏の一種なのかもしれないと今となっては思う)
というのがあった。
さて、その日の話をしよう。
私にとってあの日は選挙の日であった。
本当は違うのかもしれないけど、私のあやふやな記憶の中では選挙の日であった。
父の運転する車に乗せられて選挙会場である通っている小学校へ向かった。
(当時は、小学校に来客用の駐車場がある程度に田舎に住んでいたので、それは許されていた)
車の中に私と弟2人の子供だけ残されて、父と母は選挙会場で投票に行った。
(今ならば、通報案件であるは十分理解しているが、今から数十年前なので、それが「許されていた」というのは注釈しておく。今はやっちゃだめだよ!)
弟②は今日も「頭が痛い」と大騒ぎであった。
「また車に酔っている」という認識で、車の臭いがこもらないように窓を全開にしていた車内で、“いつもの待ち時間”を過ごしていた。
ところがどっこい、お家に帰っても、「痛い痛い」言い続けた結果。
夜中に救急車が来た。
(この間の記憶は朧でよくわからなくて、弟が「痛い痛い」と言っていた記憶もあんまりないし、もしかしたら吐いたのかもしれない。覚えてない)
(ちゃんと勉強してようやく理解したけど、頭痛+嘔吐はまあまあやばいやつなので、救急車呼ぶやつやで! 本当はもっと早く呼ぶべきだったんだろけど!)
私は救急車に家族が乗せられたのを見たは、人生二度目だな……と思った。
(1回目は上の弟が、破水して未熟児出産になって、生まれた病院からどっかでかい病院に運ばれたとき)
それっきり弟②はしばらく帰ってこなかった。
母の説明によると。
弟②は「脳動静脈奇形」という先天性の奇形で、本来ならば、いったん細くなった動脈が、細い静脈につながらなければならないところを、動脈が細くならずに太いまま細い血管につながっていたので、そのつなぎ目が切れた
ということだったらしい。
(※ 小学生に対する雑な説明です)
まあまあ、聡いお子さんだった私は、「それはどんな欠陥工事なんだ……」って思ったのと、「今回は切れたからわかったけど、普段、脳の中なんて見ることないから、私の頭の中もそうなってるかもしれない」とちょっとだけ不安に思った。
まあでも、雑なお子さんだったし、病院は嫌いだったので。
「まあ今切れてないんだから大丈夫なんだろう。弟②も大変ねえ……」
で終了した。
所詮、子供の考えることである。
でも、本当にそれだけなのだ。
確かに母親はしばらく家にいなかったけれど、その非日常は夏休みみたいなものだと感じていたし。
見舞いに連れていかれた時に見る弟は、髪は坊主で、切開痕は残っているけれど、相変わらず動き回るサルだったので。
普通に家に帰ってきたし。
日常生活の注意事項なんてものはなかったので。
普通にけんかをし、普通に遊んでいた。
何かきっかけがなければ思い出せないくらいの過去の話である。
なお、弟②はその1年後に「もう一か所、そういう場所があった」と言われて、取り除くための手術のために長期入院し、その20年後くらいに一人暮らしの冬に、不摂生で血圧を爆上げし、取り除ききれてなかった最後の1か所をもう一度爆発させた。
結果として、本当は子供のころからあったらしい、視野欠損を悪化させ(両目とも右半分の視野が欠損しているけど、左目の右の視野欠損は右目が補っているらしくて、見えないのは右の半分だけ、らしい)、てんかん薬が欠かせなくなって、ひと悶着あったんだけど。
それはなんというか、Ope後の鎮静状態で、血圧160という表示を見て、その奇形がなくてもあっても血管切れるんじゃねえか、自業自得なところもあるな……ってぼんやり思っているところでもある。
(何せ、成長した彼は、体重100kg近い巨漢だったし、ポテチの一番でかい袋を一度に3袋食べるような生活をしていたので)
バランスの良い食生活は大事である。
でもそれだけなのだ。
今をもってそれだけ。
彼が、生まれ持った欠陥のせいで姉である私がびっくりしたのは、人生で3回だけだし。
彼は人よりもう随分遅れたけれど、先春に、医療職である「師業」について、身の丈にあった人生を送っているので、姉は「勝手にしてくれ」と思っている。
なので、親御さんは、
「お子さんが病気になったときに、他の子の世話ができていない」
ということをあんまり考え込みすぎないでほしい。
ということをはるか昔に子供の立場だった、まだ親の立場になっていない私から伝えたい、と思った。
もちろん、我が家がこのような状況になったのは、最後の1回を除くと、せいぜい2年のうちの数か月の間のことなので、それがずっとなお子さんのいる家庭には当てはまらないと思うし、人によってどう感じるかは違うので、参考にならない場合もある。
(例えば、私は私より当時幼かった弟①がどう感じていたのかは、知らないし、聞いたことがない。今度聞いてみよう)
でも、こういう子供もいるんだよ、ということで。
リハビリ代わりに、酒の入った日曜の午後に思い出語りをしてみた。
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