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菅原道真が好きなんです

 福島に旅行に行った時に出迎えてくれた方の車の中でそんなことをぽろっと零した、それが最初。一次創作をしたいと人に告白したのはあれが初めてなので強烈に覚えている。あと車の中でチョコを落としてしまったことも覚えている。その節はごめんなさい。
 あの旅行は2014年。一次創作に舵を切ることは私の中では一大決心で、なかなか踏み切れず腹の中で数年発酵させていたから、少なくともその数年前ぐらいから、ぼんやり「好きだな」と思っていた気がする。なので2024年現在、私は菅原道真のことを約干支一周分ぐらい継続して好きらしい。

 例に漏れず私もプレゼン下手なオタクのため「どこが好きなの?」にうまく答えることができない。でも今日は頑張って文章にしてみる。
 大前提として「好き」より「尊敬」が勝つので、あまりマイナスなことは言いたくないのだが、好きの理由の中に「生きるのが下手すぎて他人とは思えない」という強めの共感がある。もちろん学力は別として。

 歴史上で不遇な目に遭っている人、圧倒的に生きるのが下手(私調べ)。物事をうまく運ぶための立ち回り、のための円滑な人間関係、を構築するための自分の考えの伝え方、を育むための家族間のコミュニケーション。遡ればその段階からコケている。
 悲しいほどに間が悪く、変な人に好かれ、知らないうちに利用される、貧乏くじ引かされ体質。しかも総じて地位や能力が高いから「まあ見逃してやるか」で放っておけない立場に居がち。見てらんなくて胃がギュッとなる。頼むから死後じゃなくて何とか生前に救済ルートをご用意してくれ。

 そんな道真公に共感しつつも、一番好きなところは「あくまでも人間のままで好かれ続けている」ってところ。
 死後の清涼殿落雷事件とか、怨霊慰撫のために始まった天満宮の創建だとか、祀られた理由はそこだとしても、現在では結局、生前積み上げてきた「学業」が評価されて、ほぼそれ一本で全ての学生の心の拠り所になっている。学業のご利益は他に大きな競合相手がいないから、日本で学生してたら大部分の人は一回ぐらいはお世話になってる。なんなら競合相手も生前道真公好きだったまである。平安生まれは年季が違う。

 ナチュラルボーン神じゃない、ひとりの学者で政治家の彼は、生涯かけて続けてきた自分の功績って財産で1,100年以上も評価され続けてる。でもその功績が広く知られるには、皮肉なことに不遇な失脚と強烈な恨みの伝説が一役買っている。生前の功績と死後の伝説が絶妙に混じり合って今の菅原道真像が完成しているの、ふわっとした言葉でまとめて申し訳ないが、すごく、良くないですか。血が通ってて。
 誰の記憶からも消えることが二度目の死だというなら、この人の死はまだまだ訪れそうにない。この人なりに現代をまだ生きている気がする。というか、そうであったらいいのに。

 数え切れない人間が語り継いで継ぎ足して練り上げてきた、その一番端っこ、私なりの解釈なので拙いところもあるけど、現代の天神信仰のひとつの形として末席に加えてくれたら嬉しいなと思っています。(雨水)

 日本一イケメンな会津の天神人形、あのとき買えばよかったな。



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