意義を求めちゃうし、もう木になるしかない
「中には大きな笑顔をこちらに向けている子供もいて、それがかえってつらかった。」
中学3年生のときに修学旅行で沖縄を訪れた。沖縄から奈良に戻ったあと、課題として作文を書くことになり、その時わたしは沖縄のひめゆり平和記念館に展示されていたひめゆり学徒隊の写真を思い出した。中でも一人の子供の写真が忘れられなかった私は上記の一文を書いた。そして私のその文章を読んで、一人の大人が泣いた。何を思って泣いたのかはわからないが、その目の前の事実に私の感情はひどく揺さぶられた。
昔から自分の気持ちを自分の中で捏ねくり回しては、ブログなり、ジャーナルなり、文章として出力することを自然と行なっていた。ブログを読んでくれた友人が「いいね」をしてくれることもうれしかったし、誰かが読んでくれて面白いと感じてくれることで、自分の感性を受け入れてもらえている気がした。「ここがわたしのリトルワールドなのだ」と実感できる感覚こそが、私が私自身を救える唯一のものだったんだと思う。
そんなに大切なものなのに、最近はまったく自分で書こうともせず、人の書いた文章に触れては勝手に救われて満足して、でもまた足りなくなって消えそうになって、そんな日々を繰り返しては自分が嫌になって。
みんなにもそんなことありますか?
走り続けていた時間が急に止まってしまうと、嫌でも自分と向き合わされるので厳しいなあ。
「自分はなんなんだろう?何がしたい?」
自分ができること、人に与えたいものってなんなんやろうと考えれば考えるほど、自分には何もないと感じられて呼吸が荒くなる。与えられてもらってばかりで、「もういっそのこと木になりたい」ぐらいの気持ちに飛躍する。酸素を供給できる、木になりたい。
今日もそんなことを考えて生きています。
敬愛する周囲のみんなが今日もいつもの1日を過ごせますように。
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