“ありのまま”生きるとは

・消防団の訓練期間が終わった図。

週2回の計20回ほどの訓練があった中、寝坊では一度も欠席しなかったのは偉いんじゃないっすかね。激烈な体調不良で一度休んだだけで。


・著名人の自◯とおぼしき訃報を聞くたびに、誹謗中傷を他人に行う人間の汚さみたいなものに辟易するわけだけど、

誹謗中傷は良くないことだという前提条件を持った上で言えば、誹謗中傷を多数からされるような生き方をするのは、それはそれでやはり良くないのではないかという気はしてしまう。

表現として難しいが、なんというか健康によくない。他人からのマイナスエネルギーを集めるような生き方は。

私たちの心は数万人から負の視線を浴びせられるのに耐えられるほど強くはない。自分の健康を、ひいては命を、守るためにはそういうものから縁遠い自分でないといけない。

「誹謗中傷がない世の中になるといいよね」という理想論は持ちつつも、「誹謗中傷は絶対に根絶されない」というリアリズムにて人生を歩むしかないのだろうね。


「ありのまま生きる」みたいなことが手放しで許容されそうな雰囲気が昨今はある。

近年の「ありのまま」という表現の走りは『アナと雪の女王』だろうなと思う。ありのままの自分になるの、だっただろうか。

でもよく思い出すと、あの歌だって自分の力を制御できずに雪山に隠れこもった末のものだったはずだ。(確か)

「ありのまま生きる」とはしばしば、社会規範との対立か社会交流からの断絶、どちらかを選択しないと成り立たない。

あるいは、自分の“ありのまま”を社会に適合させないといけない。結局のところ、エルサが呪いをコントロールすることができなかったら、『アナと雪の女王』があのようなハッピーエンドで終わることはなかったのだから。


つまりは、社会生活を送るとは“ありのまま”の自分を社会という枠組みからはみ出ないように変形させることを意味している。

これをあるいは「不自由だ」と表現することはできるかもしれないし、ならば私の“ありのまま”が収まるように社会の方が枠組みを広げるべきなのだという主張も正当性はある。

ただ、一人ひとりの“ありのまま”を認めるように社会の枠組みをぐんぐんと伸ばしていったら、その社会は本当に住み心地がよいのかと問われれば疑念の余地はある。

それはもうハロウィンの渋谷みたいな混沌の世界になるのではなかろうか。


別に今の枠組みが最善だとは思っていないし、だから枠組みを伸ばすなと主張したいわけでもないのだけど、だからこそ慎重な議論が必要なのだと言いたいわけだ。

昨今、「慎重な議論」みたいな言葉を揶揄する方向にあるのだけど、枠組みの拡張は不可逆なのだから、不可逆なことについては慎重であるべきだ。

「昨日までこういう権利を付与していましたけど、今日からは没収します」というわけにもいかない。


話が脱線し始めたけれど、結局のところ“ありのまま”生きるみたいなことってどうしても限界はあるよね、って話だ。


と徒然と考えていた次第。


(7/18)晴れ




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