拝啓、ジョン・F・ケネディ。

タイトルはおさらいとしてWikipedia読んでたら「ジョン・F・ケネディはアメリカ初のカソリックの大統領だったが暗殺された。」っていうものすごくざっくりした書き方が超面白かったのでタイトルにしてみた、というだけの出オチ。
元ネタは「拝啓、ジョン・レノン」(真心ブラザース)

そろそろ「オタク・プロテスタンティズム」に関して書き始めなければならないだろうなあ。
という覚書のようなもの。

というか。
そもそもキリスト教が求める「迷える子羊」像は、カトリックだろうがプロテスタントだろうが、結構苛烈だ(※わかってない)。
アメリカを見れば、プロテスタントだって日本の世界史で習うほど自由で革新的ではない、ということはわかる。
(ついでに「アメリカの保守」とはほぼイコール福音派のことだと思っていいので、あれと同じ苛烈さで保守を主張することも、また保守を論難することも科学的にナンセンスだ。と、わかりそうなもんなのだが。)

懺悔すればとにかく神様は許します、っていうところは寛大か。
それじゃスペイン宗教裁判は何なんだよ(それはモンティ・パイソン)。

だからこの文章がきちんと成立するか、という点については、疑わしいことこの上ないのである。
我々というか俺は、たぶん「迷える子羊」には含まれない。だってイルカだし。またはマナティーのぬいぐるみだし。
と言うかいい年こいて一人な上に夜中フラフラしてる初老のおじさんは、どこの宗教も願い下げだろうから。

というか、ここから始まる随想は、あくまでもキリスト教二大会派の違いを比喩に取った、一種の「げんしけん」の班目君がやる、オタク記号論的言葉遊び(要するに「エヴァンゲリオン」の薄っっっっっっっすいやつ。)に過ぎない。ということは明確に書き記しておかなければならない。
じゃないと本気で怒られかねない。

と。
いつもの長い前置きが済んだところで。
プロテスタントの原義は「抗議する人たち」だ。
何に対してどのように抗議したか、と言えば、ローマカトリックの「権威」に対して、信徒に求める内容が聖書に含まれていないことを指摘して、である。

だから、カソリックとプロテスタントの教義上の大きな違いとしては、前者は「人の序列」にも権威があり、後者は「聖書」にのみ権威がある、ということだ。
前者がローマ法王を頂点とするピラミッド型組織であるとすれば、後者は原則としてそうした階層構造を持たない。専門職である牧師の地位も、せいぜい「先輩」という定義である。
(このへんは中世までのキリスト教が租税徴収権を持っていたとかの話と関係するような気がするが、門外漢の俺が立ち入る話ではない。)


非常に世俗的な言い方をすると、宗教改革とは、
「世界的ベストセラーの読者同士が上下関係作って、読み方指図されるだけならまだしも、読みたいと思うならこのガイドブック(同人誌)も買ってその解釈に従えや、とか言われるのウザったくね?」
という話なのだと理解している。

さて。ここからが勇気が要るところなのであるが。
結局巷間言われるオタクというものは、何らかの知的活動の所産に、自身の存在のために大事な何かを求める人のこと、という定義を一旦置いてみる。
そのこと自体は極めてパーソナルな行い(営み)なので、本来自由であっていいはずなのだが、アリストテレスが言う通り人間はポリス的動物であるので、やはりある程度寄り集まってしまうし、そこに一定の「秩序」を求めてしまうのも、致し方がないところなのだろう。

が。

そのことがパーソナルな営みに乗っかりすぎてはいないだろうか??
と思うのである。

たとえば、TVゲーム(という表現もだいぶ古いが)のプレイスタイルについて「勝つためにはこういうプレイをしなければならない。上手い人のプレイ動画とかネットの攻略掲示板で見た。」とか(そしてその行為自体がとてつもなくめんどくさかったり、言ってるやつはそれができるわけではなかったりする。)。

または、映像作品について作品同士や登場人物の序列をことさらに競う行いや、「展開当てゲーム」だけが正しい「考察」であるかのようなふるまいとか(というか「考察」とかしたことないわ。そもそも「感想」とか「推論」ではいかんのか。)。

○ートルズおじさんや○っぴいえんどおじさんやYM○おじさんが、結局のところ個人史でしかない過去の体験や知識をもとに新しいファンにやたら教条的にふるまう様子とか(同時代に存在できなかったことはどうしようもないだろうに。)。

要するに俺はうんざりしているのだ。
他者が作った何かについて、別の誰かが「定型的」に楽しむべきだ、とでもいうような、言説やふるまいに。

ネット空間における顔が見えない無数の「言葉」の集合が、そうした振る舞いと結果として相性が良かったんだろう、という思いもあるし、別の視点ではそうやってファンを一つの方向に集約し、一つの序列の中で競わせる在り方というのは、コンテンツ産業側の観点でも都合がよかったのだろう、ということを、メガアイドルグループや某アイドルアニメ(ゲーム)2つぐらいの総選挙商法を見るにつけ思うわけである。

いいんだよ。ムーブがどんなに気持ち悪かろうが、それが自分と「推し」てる何かの間にしか存在しない情熱に突き動かされて行われるものであれば。
生身の人間が目の前にいるジャンルで、さすがにそのムーブは人としてどうなのよ、ということでなければ。という注釈は付くが。
(並みいるドル声優が口をそろえてガチ切れした、一時の「俺の嫁」ブームとかね。)
オタクなんて元々気持ち悪いんだから。ここでこんな駄文書いてる俺とか。

形式として「このコンテンツを楽しむということはこういう振る舞いのことである。」つって演じているのなら、それはただの形骸だ。
創作的なものに対して、あまりにもクリエイティブじゃない。
または、表現欲求という衝動に対して、あまりにもパッションが足りない。
だから、俺はそんなものに付き合う気がない。

このあと使徒信条とかニカイア・コンスタンティノポリス信条とか引き合いに出すとそれっぽくなるのだが、それをやるには「下敷き」が足らないし。
それだけ信仰義認を声高に叫ぶ人が何で現場で限界ムーブしてんのよ?と言う話には、だってプロテスタントもミサ行くし(ライブをミサと呼ぶのは非常に悪魔的。)。

オチを見失っているのでものすっごいプリミティブなことを言うのであるが。
創作も、表現も、それを受け取る聴衆の情動も、ドグマ(教条)主義に閉じ込めたくはない。

そうか。
これが俺の「三位一体」(トリニティ)か。
ダイブするぞ。

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一晩経って少し冷静になって(そうでもない。)、いくらなんでもこの文章は投げっぱなしが過ぎんか?という気分になってきた。
俺の浅っっっっさいキリスト教理解でいうと、キリスト教は「異端」という考え方を持っている。
つまり一定の教義の範囲を逸脱した教派は、キリスト教として認められない、ということだ。
現代において(いつからかは知らん)、異端の基準は基本信条からの逸脱だけらしいので、この理屈でいうとカソリックから見てプロテスタントは異端ではないし、さらにプロテスタント側には「異端を定めること自体が寛容でない。」とする立場もあるらしい。

だから、俺としてもこの文章で「教条的(または他者によって形成された何かに基づいて定型的に)に振る舞う」オタクを批判したいわけではない。

それすら逸脱してしまって、ある振る舞い自体が目的化してしまっている状況……なるべく極端で遠い例をとると、アイドルアニメ華やかなりし頃の中にも外にも攻撃的であることが目的そのものであったかのような「一部」の暴走とか。そこまで極端ではなくても、狭いうちわへの受け狙いで放たれる心無いヤジとか。いわゆる最前管理とか。……に対して、それは創作や表現に対する態度としてどうなんだい?というようなことが言いたいのである。
あれはあれで「楽しい」のかもしれないが、あまりにも表現と演者が不在ではないだろうか。と。

そういうことを源流に遡って考えると、訳が分からないところで生み出される「このコンテンツはこのように楽しむものだ」という考え方自体にこの件のめんどくささの根源があるような気がするし、逆に創作と表現(と演者)を「楽しさ」の中心に置くということさえ共有できていれば、その他の問題はわりとどうでもいい、ということでもある。

さらにここで、自分で書いた「オタクとはパーソナルな営みである。」という定義に足を取られている。
つまりこう言うことをもそもそ書いていること自体がパーソナルな楽しみを否定しているかのように取られるのではないか、と言う。
(このことは、去年立て続けに何本か文章を書いた後にわりと思い悩んだところでもある。あたかもこの解釈が絶対的に正しい、とでも言っているように取られかねない、という意味で。
 逆に誰かの感想に触れて、その日の体験がそんなに無価値だったのか、と凹んだことも、一度や二度ではない。)
これだけ教条主義を批判しているのにその理解は勘弁してくれよ、という思いもあるわけであるが。

俺は誰かのパーソナルな楽しみや思いを否定しているつもりは毛頭ない。
それはあなたが抱きしめていい。
むしろそういうパーソナルな思いを等しく認め合えるほうが、表現を取り巻く環境としては豊かではないだろうか。
あくまでその中心に創作と表現を置く、という注釈は付くとしても。
と、オタク・プロテスタントは思うのである。

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