ゆるめる。

俺の本来の芸風は「わかった風」のチャラチャラしたオタク(自虐風味)なので(こう言うことを自覚的に言うあたりがまた感じ悪い)、思い詰めたいい人風を装うのもいい加減にしなさい、と言う話。

モ!はあんまり関係ない。

いにしえのマンガ「県立地球防衛軍」(安永航一郎)に、敵組織「電柱組」の一人として、食通タイガードラゴンという人物が出てくる。
スキンヘッドで太った着物のおっさんで、側頭部になんかハンコが押してある。
(当時放送されていたグルメ番組「料理天国」で料理を食べる係だった元小結・龍虎さんがモデルというか元ネタらしい。龍虎さんはもっとイケメン。)。

昔一回読んだだけなのでよく覚えていないが、「テレビに出てくる食通は飲食代を払わない」から、本人も食い逃げをするという以外には、大した悪事も働かない。
(※食い逃げ、ダメ、絶対)

そして、逆に彼には「何を食べてもその美味しさがわからなければ真の食通とは言えない」と言う信念がある……ようだ。
(参照:しいたけヨーグルト)

なんと言うか素晴らしいと思うよね。わりと本気で。
俺は食通ではないから、わからんもんはわからん。
だけど、「世界にたった一つの美食があるならそれだけ食ってればいい」と思うわけでもない。
栄養面で言うと炭水化物以外はミドリムシくっとけば大体何とかなるらしいけど、そう言うことじゃないじゃん。
食に限らず、「大衆」文化の活力の源はその多様性にある。
大衆というものはもう存在しないのだ、と言う言説などは(いまさら糸井重里が殊更に強調していたことを含めて。)もちろん存じているが、その上で「古典」的なるものとの記号論的な「異化」を行うにおいて他に適切な言葉を知らん。

ついでに言えば「古典」と言う意味でのクラシックの愛好者はあまりにも「今」を見なさ過ぎるし(クラシックには「格調高い」という意味もある。と、TAJIRI(ex.WWE)が言ってた。)、ジャズおじさんとかはステージの上にあった「自由」とは完全に違う方向に突っ走ってると思う。

食通繋がりで言えば海原雄山だってハンバーガーとか食うねんぞ。
そのエピソードでも、このパティにはバンズの味が弱い、というサジェストを与えているのであって、ハンバーガーという食べ物を否定してはいない。

昔からあるいいものを大事にしよう、みたいな考え方にはそれはそれで賛成するところもあるのだが、逆に伝統的なるものはいつから伝統的で、またそれが如何にして人口に膾炙したか、という観点で言うと、やはりある時期には新規性を持った表現であったものが、結果として現代の我々に何とか享受できる状態を維持している、みたいな話はあるような気がしている。

すごく端的に言ってしまえば、沖縄に住んでいた時の、民謡歌手が身近なスターとして当たり前にいる(その辺に有名歌手がやってる"民謡スナック"が普通にある)環境にはわりと驚いた。
逆に、近世までの階級社会においては(国内外を問わず)一定の技芸に触れることができる階層は制限されていたということや、それを別にしても印刷や写真やレコードや電波メディアといった技術の発展なくして、それらに直接触れることができた層というのがどれほど居たのか、ということを考えれば。

結局それらにしても淘汰や研鑽とともに環境に適応して生き残ってきた、というのが正しい受け止めだろう、と思う。
(そう言えばイギリスは今でも結構強烈な階級社会なので知識階級はサッカーなんか見ない、という話を聞いたことがあるのだが、そうすると音楽の分野でもあれとかそれとかどんな受け止めなんですかね、という話は置いておくとして。あ、今はいいです訊いてないんで。)

つらつら考えると、寿司(江戸前の握り寿司にしても大阪の押し寿司にしても)も、もともとファーストフードだし。

と、うまいこと食い物の話に戻ってきたところで。
別にチェーン店や行列ができる店やガイドブックに載ってる店ばっかりが食い物屋じゃないわけで。
「最近できたそこの店、間口は小さいけど活気があっていい感じじゃない?」くらいの気軽さで、人はさまざまなものに触れていいんじゃないか、と思う。
人の営みから生まれ出るものを、主観と客観とを問わず、一つの序列のなかに押し込もうと言うこと自体が、そもそもナンセンスなのだ。

居心地が悪いと思えば立ち去ればいいし、また近くに行ったら思い出す、くらいの距離感でもいいだろう。
一見さんお断りでもないのだし。
路地裏でいい味出してる店、けっこうありますぜ。

と言う、何かの比喩。だった。

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