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電話をかけるのキライ、電話にでるのはもっとキライ。

「電話当番お疲れ様でした。お昼ごはんにしてください。」
 パソコンの横からふいに声がして、ついていた肘が机から外れそうになった。あわてて画面の右下を見ると、13:05の文字が滲んだ。一度もコール音が鳴らなかった事務室で、どうやらうたた寝をしてしまったらしい。
 甘やかな声でそっと労ってくれた若い女性の部下に「うん」とも「ああ」とも、はっきりした返事もできないままパソコンから離れ「じゃ昼メシにしてくるよ。」と今度はまともな声が出たことにほっとし、眼鏡をかけなおす。
 周囲は職員がのらりくらりと昼休みから戻り始めたのと反対に、自分の机の一番下の深い引き出しから弁当を取り出し、一人社内のラウンジへ向かった。

 セルフでコーヒーを淹れ(メシ時もコーヒーなのだと言うと、妻は顔をしかめ、ほうじ茶を入れるから水筒を持って行ってと言うが)やや遅めの昼食。
 妻はかなり年下で、子どもがいないせいか、いつもどこか無邪気な仕掛けを押し付けてくる。
 赤いプラスチックの弁当箱とか、それを包むギンガムチェックのクロスとか。
 今日の弁当は下段に雑穀を混ぜた白米。おかずは…
メインは昨晩の夕食の煮込みハンバーグ、その横にやや焦げ目の付いたたまご焼き。トマトとカッテージチーズのマヨネーズ和え。そしてゴマをまぶしたほうれん草のお浸し。箸を伸ばそうとした時、何か違和感が。
 お浸しを入れているホイルの器が三枚も重なっている。何故気づいたかと言うと、合紙が挟まったままだったから(銀紙と銀紙の間を仕切る薄い紙をアイシと呼ぶのは、仕事上知る機会があったのだ)
 きっと今日、妻は妻なりの予定が何かあるんだろう。朝、時間がなく急いで弁当を詰めたと言うよりも、何かに気持ちを持っていかれていた感じがする。
 そう。妻は世の中の出来事に緊張しいで、特に人と話をするのが苦手なのだ。
 夕食後、妻が一人で入る風呂場から繰り返しセリフのつぶやきが聞こえてくるのは、最近始まったことではない。
 友達と飲みに出掛ける前の日は
 「すみませーん。注文おねがいしまーす。」
 だったし
 ある日は
 「にんじんのラペ、100グラムだけください。」
 だったり。
 「前髪、もう少しカットしてもらえませんか。」
 の日もあった。
 最初はぶつぶつ、声にならない言葉も次第にハッキリと、リビングにも聞こえるくらいになる。練習の成果は現れている。妻のプライドのためにも、すました顔で風呂から上がってくる彼女には、一言もそのことには触れずにいるが。
 はて、昨夜の妻のセリフは何だったかな。テレビに気を取られていて聞いてなかったな。余程のことがあるんだろう。頑張ったご褒美に、帰りにコンビニに寄って妻の好きな辛いお菓子でも買って、さりげなく渡そうかな。
 その前に妻の洗い物の手間を省くために、弁当を作って貰った者の礼儀として、水玉模様のランチバッグに戻す前に、ティッシュで食べ終えた弁当箱の中を拭っておく。
 二杯目のコーヒー(今度はミルクを入れて)を飲みながら窓の外を眺めていると、自然に笑いがこみあげてきた。妻に一時間も電話当番なんてさせたら、腹痛を起こして何度もトイレに駆け込むだろう。
 我が家では電話でしかできない、レストランや美容院の予約を入れるのはいつも夫の役割だし、妻はメールを出す時も、緊急するらしく下書きを作っている。
 まあ、自分の大事な時間を互いに差し出すのが結婚生活。妻のことは全て受け入れ、これからも楽しませてもらおう。
 さて、仕事に戻るか。

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