死の恐怖の乗り越え方
私は、昔から死ぬことが怖かったです。
陰キャなので、寝る前とか一人の時間になると、生きる意味とは何か?みたいなことを考え始め、大体いつも死ぬのって怖すぎる、、、と思いながら眠りにつくのでした。
大人になってからもそれについて考えることは多かったのですが、アラサーになったあたりから自分の中である程度納得できる回答が出てきたように思います。
人間の生きる意味については下記の記事で述べました。
本稿では、死の恐怖の乗り越え方について述べたいと思います。
我々は遺伝子の乗り物に過ぎないことを理解して子孫を残す
まず、死の恐怖を乗り越える方法の一つ目、
「我々は遺伝子の乗り物に過ぎないことを理解して子孫を残す」です。
我々人間をはじめとする動物は自らの遺伝子を残すように進化してきました。
「利己的な遺伝子」という進化論の名著がありますが、その作者のリチャード・ホーキンスは、人間をはじめとする動物を「遺伝子の乗り物」と定義しています。
もちろん、これは生物や遺伝子の振る舞いに対する一つの解釈に過ぎないのですが、死の恐怖の乗り越えるための考え方としてはかなり有効です。
我々が遺伝子の乗り物に過ぎないとしたら、主役は遺伝子(DNA)です。
そして、我々動物は遺伝子を残す手段である生殖という機能を保有しています。
子供を産み、その子供がさらに子供を産み、と繰り返していくことで、我々の遺伝子は生き続けます。
我々の個体は死んでなくなります。しかし、それはどうだって良いのです。
我々の個体は生物の主人公たる遺伝子が載っている乗り物に過ぎなかったのですから。単に新車に乗り換えるなのです。
このように考えることで、死ぬこと(個体が失われること)は何ら問題ないという考え方ができるのではないでしょうか。
我々は陽子と中性子の集合体にすぎないと知る
死の恐怖の乗り越え方の二つ目「我々は陽子と中性子の集合体にすぎないと知る」についてです。
高校化学で学ぶことですが、この世界のすべては原子でできています。
さらにその原始を細かくみると、陽子と中性子という粒に分解されます。
これらで構成されている原子の大きさは直径約10-8cm(1cmの1億分の1)です。
海も陸も、自動車もゴルフボールも、貴方も私も、すべてはこの原子(陽子+中性子)の集合体にすぎません。
そして、私が私と思っている子の存在も原子であり、
このように考えているのは私の脳の中のシナプスのやり取りで生じており、その中身は原子です。
我々の正体は原子(陽子+中性子)単なる粒。ごくごく小さい粒。
我々の思考の正体も単なる粒の移動。
我々が我々を我々だと認識している(自我)も粒のせい。
そう考えると「死」というものがさほど意味のあるものではないとわかるでしょう。
「死」とは、人間の臓器が機能を失うこと。機能しているとは、陽子&中性子という名の粒の集合体が移動していたということ、それらの移動がなくなったに過ぎない。
「死」とか「生」とか仰々しいことを考えちゃダメ。単なる粒の集合体。
これを知ることで我々という自我に対して思い入れもなくなるはずです。
そうすれば、死ぬことは全然怖くなくなります。
我々の自我は脳というハードウェアに書き込まれたデータだと知る
死の恐怖の乗り越え方の3番目「我々の自我は脳というハードウェアに書き込まれたデータだと知る」です。
そもそも「死」という経験をするのは「生」きているものだけです。
では、我々はいつ産(生)まれたのでしょうか。
まず、我々の体は我々の親が性行為をして我々を作りました。
ここで注意しないといけないのは、
我々の親は我々を産んだわけではありません。
我々の親は、一人の赤ん坊を産んだのです。その赤ん坊が我々になったのです。
つまり、最初は自我のない赤ん坊でした。そして、(どこかのタイミングで急にではなく)徐々に私という自我が産まれたのです。
どこかのタイミングで誕生したのではないのです。徐々に私が形成されていったのです。
徐々に「生」きるものとなったのです。
人間の場合も同じです。我々の自我が形成されているのは我々の脳の中。
つまり、脳は一種のハードウェアだと捉えることができる。
そのハードウェアを作ったのは私の両親の性行為。
脳(ハードウェア)だけでは自我を持たない(「生」きているものではない)
これを理解すると少し気持ちが和らぐのではないっでしょうか。
違う考え方をしてみましょう。
今、Chat GPTというAIチャットbotが話題ですが、
AIの技術が進化して、人間のように自我を持ち感情を持つAIが産まれたらどうなるでしょうか。
AIは何かしらのハードウェアの上で動くはずです。
そのハードウェアは誰が作ることになるでしょうか。
どこかの国のどこかのエンジニアです。
その上に書かれたコードによってAIが作られてやがて自我を持つようになります。
AIが自我を持って感情を持って死への恐怖を持ったとしても、人間は「ん?何言ってんの?お前これまで存在してなかったじゃん。電源切られるだけじゃん。」と思うだろう。人間の死への恐怖も神からみたらそんなものでしょう。
私の両親は私を産んだのではない。私の両親は一人の赤ん坊を産み、その赤ん坊が私になった。
つまり、自分というものの起源はそんなもん。いつの間にか自分という自我が作り上げたれただけ。そして「生」着るものとなった。
まとめ
いかがだったでしょうか。
以上3点を書きました。
いずれも「考え方」を変えることで、私は死の恐怖を乗り越えています。
(具体的なアクションが必要なのは一つ目のところで記載した出産・子育ての部分です。)
死の恐怖にたまに襲われるという人は多いと思いますが、一つの事例として上記の考え方をしてみてはいかがでしょうか。
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