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うさぽんの昔話3

私ね、児童養護施設に入ってすぐに施設が運営する保育園に通うことになったんです。

担任が土井先生というベテランの女性の先生でね。手のかかる私をいつも抱っこしながらこう言うんです。

「施設の先生に何を言われてもね、うさぽんはそのままの自由なうさぽんでいい!そのままのうさぽんが大好き!」

私も土井先生大好きだった。

何度も土井先生がお母さんだったらいいのに!って言ってたことを覚えてる。

本来、大人も子供も自由なんです。
でもなぜか、忙しい毎日をこなす中で当たり前のことをついつい忘れてしまう。

私達は自由なんです。

支援団体が宣伝するルールに飲み込まれる必要もなく、被害者というポジションを死守する必要もなく、自分の人生の中の出来事にしがみつきそれをアイデンティティとして主張しなくとも、自由に生きればいいと私は思うんです。

私は虐待を受けたことも施設で育ったこともアイデンティティにしていない。

今となれば、貴重な体験のひとつとしておもしろがれる心の余裕があるので、こうして書くことも出来る。

自由でいい。
ついてくる責任は自分で取ればいい。

私は、虐待された過去をアイデンティティとして生きると、支援団体に喰いものにされることを過去に学んでいる。

その時は、一斉に支援団体が寄ってきた。講演会で話してくれ!勉強会で話してくれ!セミナーで教えてくれ!政治家の〇〇会で話そう!

そりゃ大変だった。新聞の取材もきた。
自分の体験を語るのがとても苦痛になっていった。

こう言えばいい!
このような表現にすればいい!
ここをもっと強調して書いて!
しんみりした話じゃなく勇気を与えるような話をしてくれ!

毎日のように誰かから電話が来て、何時間も話をした。

全く自由じゃなかった。
そんな言い回しはしたくないと言ってもダメだしされた。

高校生の時に、施設で暮らしている事が猛烈に恥ずかしかった時期があった。なんとかバレたくないと思い考えに考えた。

そこで思いついたのが「嘘」をつくことだった。

嘘がバレそうになったら思いつきで考えた嘘をつく。どんどん嘘を重ねるので、自分でついた嘘すら忘れる 笑

そうなると、今度は嘘をつく罪悪感に苛まれる。

苦しかった。

そんな経験も、支援者達にはウケた。
心に傷のある女の子は「嘘をつきたがる」と言われた。

とにかく様々な団体が私の話を聞きたいと来た。なぜかと言うと私の知らない所で支援者が別の支援者に私を紹介していたからだ。

支援者達は私を十字架に張りつけ、看板に掲げ引きずりまわした。

当事者の話を聞けと言いながら、自分達の都合のいいように勝手に私の体験を使い様々所で語り出した。

会場に行けば知らない人に
「噂のうさぽんだ!」と言われた。


もう嫌だ!!!!
いい加減にしてくれ!!!!!


わたしの心が叫びだした。


そして、私は児童養護施設内の虐待や、貧困ビジネスでの体験、支援団体の汚さを世の中に出さなければ、何人もの被害者が出てしまうと感じた。

私が体験を話すことは、政治家や支援者達に気にいられる為じゃない。

私は、支援者の金稼ぎをする為の情報提供屋か?

アホらしい。
そう思った瞬間、支援者達と一切の連絡を絶った。1人を除き徹底的にブロックした。

あなたが心配だと各方面から連絡が続いたが、一切返信はしなかった。

私は、今起きている現実を伝える為だ!
とハッキリと目が覚めた。

ふと我に返った時に、全てが馬鹿らしくなった。


バカバカしい。
茶番に付き合えるかボケ!

昔話の2に書きましたが、どうして支援と語り公金チューチューすることが許されないのか?

私はこう考えます。
人としてダメでしょ。

人のため
人助け

本来はここにお金なんて動かないはずだ。だって、あなたがそうしたいから始めた活動や運動でしょ?

だったら徹底的に寄付でやればいい。
税金を使わなくとも、とても善い活動ならば多くの方が賛同し寄付するはずだ。

慈善事業とはそういうものだ。

金を稼ぎたいのなら株式会社を作りビジネスをすればいい。


支援という言葉を「なんでもあり」にしてしまってはいけない。なぜなら、そこには人間がいるのだから。


善く生きることについて
ソクラテスはこう説いた。

その魂に知恵、勇気、正義などの優れた性質、すなわち徳が備わるよう心がけ、人として優れた魂をもって善く生きよ。
ソクラテス

健康で裕福でお金にこまらず富に囲まれていても、その人の魂が悪しきもので未熟なものであれば、その人生自体が貧しく無意味で世界の人には何も響かない。悪名高き名が歴史に残るだけだ。

健康に恵まれず、十分なお金もなく困窮したまま人生を終えたとしても、その人の魂が成熟し善きものであったとするならば、そこから放たれる言葉や行いが社会に何らかの良い影響を必ず残していくことになるはずだ。


このような解釈を私はする。


人間として善く生きることが出来ない人が支援者となり、国民の税金を湯水のように使い、反日活動をし、保護と言う名目である一定の思想を叩き込む。

私が入れられた貧困ビジネスの保護施設はこのような状態だった。
とても善い活動とは言い難い。
むしろ私にとっては害悪となった。

私が子供の頃に住んでいた施設は、建物はとても立派でした。

見学にくる議員や、取材にくるテレビ局やマスゴミ達は絶賛していた。

年々建物は立派になっていた。

監視カメラも立派なものになり、入り口へ続く道は舗装されどこかの結婚式場か?と思うほどメルヘン仕様になっていた。

門がこう叫ぶ。

もっともっと金をくれ!

私の思考が歪んでいるのかもしれませんね 笑
でもそう言っているような気がしてならなかった。


その立派な建物の中で、子供達はどんな幸せな生活をおくっているのかな?とご近所さんは思っているでしょう。

視察来た支援者達はこんなに良い環境なら子供達も満足しますね!

なんてことを話す。


素晴らしい養育をする為には立派な建物が必要でしょうか?立派な建物だけで子供は善い大人に成長しますか?


大人達が子供へ何をしたか?
こちらの方が重要でしょ。


立派な建物の中で虐待をしていたなんて社会に知れたらさぁ大変!!

学校もそう。
いじめを隠蔽しようとする

子供達の痛みはいつも「しょうがない」という言葉で片付けられる。

これが子供支援なのだろうか。
私は甚だ疑問だ。


子供を養うことや可哀想な少女達が、いつから金儲けのビジネスになったのだろう。

戦後、戦争孤児を牢屋にいれて見世物小屋で稼いでいたヤツらがいた。

今も本質はなにも変わっていない。

こんなに可哀想で、こんなに大変な子供たちがいる!

こんな被害を受けて性搾取されています!

被害者はまるで見世物だ。

問題を解決もせずに、当事者を十字架に貼り付けたまま騒ぎまくって公金搾取している。悪質な団体も存在する。

私は、児童福祉も社会福祉も間違えた方向に突き進んでいるように思えてならない。

お金を稼ぐビジネスならば、人を金稼ぎの道具にしてはならない。

人として絶対にだ。

私は、その苦しみを思う存分味わった。

土井先生のように、子供に自由さを教える大人が増えて欲しいと私は願う。



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