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どんどん知能が低下していく人類。どう知能低下に抗うか、対処する(べき)か。

こんな本が発売されました。

「知能低下の人類史」とはどんな内容か&信じますか?

一言でいうと、産業革命以降、人類はどんどん知能が低下していってるよ、というものです。

何をもってして知能が低下したと定義するのかは本に譲るとして、まず「人類はますます知能低下していってる」という話を聞いてどう思いますか。

賛成か反対か。

好感を持つか、それとも不快か。

「そんなはずはない」
とあくまでも否定して、そんな気分を悪くさせる情報は頭から追い出して二度と考えないようにして精神衛生を保つか。

「偉い学者さんが研究したのなら、そうなのかもね。でも、だから何?何百年も前の人類より知能が低下しているなんて言われたところで、私は私なりに現代社会でちゃんと生活ができているわけだから、問題ない」
と、認めたうえでそれは問題ではないと一蹴するか。

どの反応を選んでも個々人の自由ですね。

今の世の中で、自分が生き延びていられる。これは充分に奇跡的なことの連続です。ふとしたことで当たり前の日常はたやすく壊れてしまう。どんなに賢く健康で強靭な肉体と精神を持っているとしても、災害や事故に巻き込まれれば一瞬で命は失われる。その危険が、平和そうに見える社会にも、どこにでもあります。それこそ家の中で転んだだけで。車や自転車とぶつかっただけでも。

それを考えれば、長い目で見て人類が歴史的には知能が低下していると言われたところで「だから何?」は、生存戦略としては正しい反応とさえ言えるでしょう。

では、無対応で構わないのか。

知能がどんどん低下していっているのかもしれない人類に向けての対応策

私はいちおう高度とされる方面の霊能力を教える立場なのですが、そういうことを学んでいない一般の人に向けてあえて対応策を提案するといえば

(しっかり)動物になれ

です。

スピリチュアルヒーリングや気功術の(大幅な)応用といった、いわば超能力者養成のようなことをしている身で実感するのは、

数年前までと比べて、高度な霊能力や超能力よりも「動物的直感」による、瞬時の対応が求められる世の中になってきているな

ということです。

まさにブルース・リーの世界。

「考えるな、感じろ」

ですね。

コミュニケーションにしても、チャットアプリで一行程度の短い基本的な文のやりとりで事足りる。会話でもそう。ちょっと複雑な長い文を話すと、聞いている側が理解できず「?」となります。
「話長いw」
で無粋な人だとマイナス評価されてしまう風潮も。

もう、人間の言葉なのかどうかさえ怪しいというか、動物が鳴き声で合図を送りあうようなスタイルが一般的になってきました。

もっといえば、文字で言いたいことを考えることすら「大変な作業」になりつつあり、今の気持ちをうまいこと表現してくれるイラストのスタンプがチャットアプリでは多用されています。

そして手間を惜しんでか、そんな抽象的な端的な表現しかせずに、相手には「わかってほしい」と要求する。

さらに、批判は「攻撃」、反対意見は「嫌いな証拠」といった、ちょっと幼稚にも見える判断基準が幅をきかせつつあるように思います。大人たちの間であっても。
好きなら全肯定で全面的に賛成・賛同して励ましやお祝い、褒めるなどの100%プラス反応(しか許さない)。
ほんの少しでも異を唱えたり、苦言を呈するようなことをしたら「あの人は私のことが嫌いだから批判という攻撃をした」と見做す。
さすがに世の中の全員が全員そうとは申しませんが、数年〜十数年前よりもそう見做される度合いが高くなっていってると個人的には感じます。
(杞憂であってほしいのですが)

もしかしたら遺伝的な劣化による知能低下以前に人類は、便利でなんでも簡単に手に入る、いわば甘やかされた社会に生きることで、以前の時代よりもナァナァなままで歳を重ねて、実年齢のわりに精神年齢が低い現象が起きているのかもしれませんね。

「しっかり動物になれ」とはどういうことか&なぜこれからの評価経済社会で役に立つのか

もともと日本は
「いちいち論理的に長々と言いたいことを表明するのではなく、互いにほのめかし、匂わせ、醸し出し、察する」
という、ハイコンテクストなコミュニケーションの度合いが世界的に見ても高いようですが。
(ちなみにローコンテクストの権化ともいえる、なんでもいちいち言葉で説明して論理的なやりとりをする文化圏の世界トップは、スイスのドイツ語話者というデータを見たことがあります。実際スイスでドイツ語を使って滞在した経験がある私は勝手ながら首をブンブン縦に振ってしまいました)

それがさらに抽象度を増しつつ、残念ながら各自がそれぞれの生理的な欲求を子どもみたいに直截的に表現するばかりで、相手の言い分を汲み取ろうとしない(でも社会生活がなんとなく送れてしまう。それゆえに、今のままではヤバいという危機感もなく、学習やそのためのモチベーション、そこから学習しての行動、行動した成果としての成長もないまま実年齢としての歳だけは一丁前にとっていく)。そういう人々が多数派を占める、占めていくとしたら。

察する&脊髄反射で的確に瞬時に対応できる達人

になっておくに越したことはないでしょう。

そして、あわよくば好意的な反応を得ること。

それが先ほど提案した、「(しっかり)動物になれ」です。

これが超感覚的能力の学習者や修練を積む実習生向けであれば、それこそブルース・リーの映画で武術の奥義を極める修行シーンのような、ある種の高度なスピリチュアリティを育成するカリキュラムを実践することになるのですが。

そうではない一般の人に向けて言うなら、

・他の人間を赤ちゃんだと思え(論理、理屈は通用しない)

・論理や理屈でいくら“正しい”ことを説いても、相手が「反対された=攻撃された→不快感、嫌悪感」を感じとると、あとに残るのは論理的な小難しい言葉ではなくて「あの人は私を攻撃してきたから嫌い」という『印象』だけ

・この世で生き延びるのは、周りとうまくコミュれる人間
 (能力が高かろうが、立派な考えだかを持っていようが、社会で孤立して周囲と友好的な関係を築けない生物はこれまで滅亡する一方だった)


らへんでしょうか。

これからは評価経済社会と呼ばれる世界になっていくだろうという見方が、おおかたの論客たちによって肯定されています。

ようするに「いいね!」をたくさん貰える、「フォロワーが多い」、「インフルーエンサー」であることがお金になり身分を表し、ひいては社会的な階級になるということ。人気がすべてなんです。

本人が望もうが望むまいが、人類すべて「芸能人」としての基準で評価されてしまう&その評価が稼げるお金や社会的信用といったライフラインに直結する

(ようになる)んです。
もう、その兆しはSNSやYouTubeを見ていると、実績として現れ始めて久しいですよね?

小難しい、おそらく何かしらのたいそうな基準でいえば正論なのであろうけれどつまんねえ話をだらだらしても、「いいね!」といういわば動物的で原始的な生理的感覚では、大勢の人から評価されない。
そして評価されないことがすなわち、この世界でどれだけのものを得られるかそうでないかに繋がる。お金や社会的地位も含めて、得られるものが少なければ、できることも少なくなる。いわば負のスパイラルに突入します。

大胆に極論するなら

知能なんて、かつての人類と比べて低下しようが、問題ない。
これからの時代を生きるみんなの知能が同程度に低下しているなら不利になることはないし、これからモノをいうのは知能ではなく魅力だ。
それも、知能と関係のない、動物的で生理的な、本能的感情に近いところで感じる「いいね!」がすべて。

だったら、べつに人類の知能が低下していようがどうかなんて、気にする必要ない。
役に立たない知能なんぞの低下を防ぐためにあれこれ努力するよりは、これからの時代にどんどんモノを言うようになる「魅力」を磨いて、いかにバズらせ、「いいね!」とフォロワーを稼ぎ、インフルーエンサー化してセレブ成功者になっていくかだけがすべて。
そして、それを考えるために確かに多少の知能は必要だが、べつにそれは歴史的に見て過去の人類より劣化しているかどうかではなく、その時代の「みんな」が「いいね!」と思うものを察し、見抜いて、体現するかで決まる。

という結論です。

考えるな、感じろ。

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