イグアナを殺す夢を見た。僕は学校を作りたい。
いま自分が住んでいる場所、「パーマカルチャーと平和道場」には、僕らが住む前からすでに住んでいる、住人がいる。
そいつらは、夜になると活動を始める。母屋の屋根裏や床下、時には土間とかにも出てくる。正体は直接は見たことがないから分からない。アライグマっていう噂は聴いたことがあるけど。
もちろん、床の上とかには小さな虫や、空気中にはこの時期になると良く出てき始める、蚊もたくさんいる。
蚊をパチンと殺して、ふと思う。
いつからだろう。家の中に虫が出たら殺そうとするのは。いつからだろう、自分が住んでいる家に住むものが、人間だけ、自分だけだ、と思うようになったのは。いつからだろう、”自分のモノ”という概念が生まれたのは。
イグアナを殺す夢を見た
今朝、夢を見た。イグアナを殺す夢だ。イグアナの背後から、ナイフで背中を刺した。何度も何度も、刺した。血が溢れかえった。ちなみに、その時持っていたナイフは、一緒に住んでいる仲間のボブが、このまえ研いでくれた切れ味抜群のナイフだ。
一心不乱に、刺し続ける。最初はイグアナも抵抗する。身体をねじねじと回す。でもおれは、何度も背後に周り、刺し続ける。気がづくと、イグアナは死んでいた。おなかと背中がつながり、大きな空洞ができていた。おれは、イグアナを殺した。
屋根裏で、動物が走り回る音で目が覚めた。4:30。イグアナの夢を思い出した。夢には、その人が現実世界で合意していないことや本当は願っていること、または避けたいことなどが現れるらしい。どんな夢にも意味があるということだ。
イグアナを殺す夢。一体どんな意味があるのだろうか。考えても分からなくて、Google先生に力を借りることにした。イグアナを殺す夢が意味することは、「意識や対人関係を変容したいと強く願っている現れ。そして、それらを実際に変容させていくことの兆候である、吉夢。」だそうだ。
そうなのか、と思い、朝の散歩に出かけた。歩いていたらいきなり、「神社に行かなきゃ」と思い、神社まで走っていった。
僕が良くお世話になっている、株式会社はぐくむの代表、たけさんが言っていた言葉を思い出す。『お参りは「~が叶いますように」と、お願いをする場ではなく、「~します」と、宣言をして誓う場なんだ。』
最近俺が良く思うこと。それは、学校を作りたいということ。なぜか、最近は気づいたらそのことを考えていて、意識が「いまここ」にいる感じがしない。
「絶対に学校作ります」と誓ってから、神社を後にして、帰り道を歩いていた。さっきのイグアナの、意識変容の話を思い出した。自分の中では、人が自分の中の何かに気づき、それになっていくという、意識変容をしていくときは、必ず希望と共に、痛みもを伴うということを体感的に知っていた。
「痛み」なんだろう。と、考える。いや、考えていたというよりは、「痛み」に身をゆだねていたというか、感じていた。
いきなり、思い出す。小学生のころに、友達とけんかして、相手が怒って帰ろうとするのを、必死に笑かして止めようとする記憶。友達が誰かを仲間外れにしようと計画を立てていることを耳にしていた記憶。他にも思い出すのは、どれも、分断という、記憶ばかり。自分と誰かの分断、友達同士の分断。自分と親の分断。
なんで?なんでそんなこと言うの?そんなことするの?だってみんな仲間じゃん。どうして?
そういえば、自分が一番熱がこもる、命が輝いていると思う瞬間って、自分と誰かや、誰かと誰かの分断が目の前で起こっていて、それをつなぎとめたい、統合させたいと強く思うときだ。と、思い出す。
一つ一つの思い出した痛みに共通して感じたのは、「みんな仲間じゃん」という心の叫び。どうして、みんな仲間なのに、対立が起こるの?争うの?そこに対しての悲しさ。それとともに、みんな仲間であるということを自分が願っているということに改めて気づいたことへの何とも言えないきもち。
気づいたら、涙が止まらなかった。
「みんな仲間じゃんってずっと言いたかった」と、スマホのメモに書き残して、5:30から始まる瞑想に出るために平和道場に戻った。
学校を作りたい。
おれは、
学校を作りたい。
一人一人の内的な豊かさへの変容に携わりたい。
人と人や、コミュニティ間の関係性や葛藤・紛争を解決したい。
なぜか、もっと海外に行きたい。
全てはきっと、分断から統合に向かうため。みんな仲間じゃん、一つじゃんっていうことを思い出すため。単純なワクワクもあるかもしれないけど。
学校を作る。
一人一人が、生きることって楽しいな、生きることって幸せなんだなって、心から生きる喜びを感じられる子どもの学校。自然から、暮らしから、人との関りから調和や豊かさを学び、自分がやりたいことを自分で創造していく喜びを感じ、真実のコミュニケーションから自分が何者であり、自他ともに心でなにを感じて生きているのかを自覚し表現することの健やかさを感じる。そして、子どもから、学校から、地域へ、町へと開かれていくような、誰もがつながれるそんな場所。他にも色々あるんだろうけど、そんなことを考えている。
一人一人の内的な豊かさへの変容に携わりたい。
そのひとが、どんどんとその人に帰っていくような。その人らしく、その人がその人にとっての豊かさや幸せに少しでも近づけるように。この世界は人と人との関係性でできている。一人の内的な平和が、その人の周りへと連鎖して、世界へ波となって影響していくんだ。そんな場・対話を創造していきたい。
人と人や、コミュニティ間の関係性や葛藤・紛争を解決したい。
色んな複雑なものが絡み合ってできる、対立や葛藤、紛争。それぞれの大切なものを尊重しながら、全体として健やかであるためにはどうしたらいいのだろうか?そこを探求していきたい。
なぜか、もっと海外に行きたい。
今まで何度か海外に行っているが、海外に飛び出したいという欲求がとてもある。もっともっと多くの人と、自然とつながりたいと思っているのだろうか。理由はあまりないけど、もっともっと海外に行きたい。
コロナウイルスの影響もあり、この先がどうなっていくのか分からないけど、自分がやりたいこと、好きなことを表明し続けることは、どんな時代においても大切だと思う。
おれは、「これがしたい。これをする。これが好き。」と、断言をすること、仮でもいいから決めることに対して、とても恐れを感じるタイプだと思う。言って、できなかったらどうしようとか、そんなこと言ったら馬鹿にされるとか、どこかで思っている自分が居る。
そこに対して恐れを感じることは全く悪いことではないし、むしろそんな自分を自覚することはとても大事で、そこにその人なりの大切なものがあるからそう感じているんだと思う。
でもだからといって、そこにとどまっていてもあまり意味がない。確かに、葛藤すること、立ち止まって考えることも大切だけど、自分は何者であるとか、何がしたいか、何が好きか、胸を張って主張することが今の俺には、必要なんだと思う。
とりあえず、言葉にしてみる。まだ具体的でもないけど、表現してみる。仮でもいいから。でも、しっかりと覚悟を持って。
ここまでの話は、実際に今日起きた話だし、自分が心から願っていることだと思う。はじめて、ちょっとカッコつけた小説みたいに書いてみた(笑)
読んでくれてありがとう。
最後に付け足しで、とはいえ、今ある葛藤を残しておきたいと思う。
葛藤の話
自分がパーマカルチャーと平和道場に来た理由。学校を作るうえで、場を創るうえで、とても大切なことが詰まっている気がするんだ、ここでの生活では。
ここでも書いたことだ。
一か月半くらい経ってみて、楽しいことも嬉しいことも、自分の変化も感じるけど、でも実際は、なんだかしんどい部分が多い。
コロナウイルスの影響があるのと、オンラインの環境が整っていないのもあって、会う人は同じ人ばかりで退屈だと感じてしまう自分。
平和道場の場を通して、リトリートや子どもの学校を、今できる最善でやってみたかったが、コロナでできないもどかしさ。
今までの生き方から打って変わり、コロナの影響もあり、ただ、暮らすということを退屈に感じてしまい、耐えられなくなっている自分に気づく。
自然に見習い、自然と共に生きること、暮らしの中に、一つ一つの中に愛と真実を見ること。そんなことを大切にしたいし、それがしたくて来ているのに、身体がそれを拒んでいる感じがする。
そんな自分に、残念さを感じる。大きな矛盾を感じる。
それと共に、思っていたよりも自分は、誰かに何かの価値提供をして貢献することに大きな意味を感じていたということに気づく。
とりあえず、そんな葛藤を抱えている自分もオープンにしてみる。
なんか、色んな文章と感情が混じったnoteになったな。でもこれがリアルだ。リアルな自分を捉えていたいし、みんなにも知ってほしい。
終わり方が分からなくなってしまった(笑)
読んでくれてありがとう。
おやすみ!!笑
ハグ♡
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?