見出し画像

九条林檎No.5に学ぶ統治の基本

よく来たな俺の名は…いや、俺の名などどうでもいい。
俺はただのディナー(注:九条林檎No.5のファン)だ。
九条林檎が誰か、バチャール蠱毒が何かはここでは説明しない。
マガジンでいろんな奴が書いた断片を集めてやったからそれを見ろ。
今日はそういう前提はとばして九条林檎No.5の統治能力についてはなそうと思う。

九条林檎No.5は努力家でおそろしい能力をいくつも身に着けている。
兎がその中でももっとも感嘆するのが統治能力だ。何を統治するのか。ディナーだ。ひらたく言うとファンの扱い方が上手いということだ。

ファンというものは有難いものであり厄介なものだ。活動を応援したり支えたりしてくれる分にはありがたいが、活動を邪魔したり粘着したり理想を押し付けたりしてくることも稀によくある。
ファンの人数が増えると当然ファンの駄目な行動も増えやすくなる。
ダイハードテイルズの連中(注:ニンジャスレイヤーのほんやくとかをしている)も言っているが、ファンが良くない行動は、表現者に迷惑なだけでなく、他のファンにも迷惑だ。
新規ファンが入りにくくなったり、既存のファンが離れていく原因にもなる。
だがファンというのは表現者の部下ではない。ぶっちゃけた話、表現者のまわりを勝手にうろついている連中だ。なので表現者がどこまでファン活動に干渉するかは非常に悩ましい問題といえる。

前置きがながくなった。話をもどそう。
九条林檎No.5はファンとの接し方について至言を残している。

『父上から教わった統治の極意は教祖でもなく友人でもなく、だ
意見を気軽に言える友人であってはいけない、統治に手間取るからな
そして教祖であってもいけない、偶像化すれば吾の声は届かなくなる』

受け継がれる帝王学。
距離が近すぎてはいけない。対等の立場の者に人は従わない。
距離が遠すぎてはいけない。姿が見えなければいずれ人は本物ではなく都合の良い偶像を崇め始める。
常に領民の視界には入りつつ、領民の視線には立たないということだろう。領主の心得としてこれほどに正鵠を射たものはそうないのではないか。

九条林檎No.5の言動は正にこの言葉を体現している。
ひとつ具体例をあげよう。

フォローしない

九条林檎No,5はツイッターでファンをフォローしない。
フォローというのは自分を知ってもらうのにてっとり早く効果的な手段だ。フォローされたらフォローを返すという文化圏もあるようだし、特に駆け出しが自分を知ってもらうには有効といえる。なにより自分が推しを一方的に見るのではなく、推しが自分を見てくれるというのはファンにとってたまらないものがあるだろう。
その手法を否定はしない。
だからこそ、九条林檎No.5がそれをしないのはすごい。
彼女がフォローするのはオーディションの世話役と参加者のみ。ファンを一切フォローしない。九条林檎No.5は相互の友人ではなく、一方的にファンを従える(フォローされる)存在なのだ。

では彼女はファンのことを見ていないのか?雲の上の存在なのか?
結論から言えばそんなことはない。
今のところはマシュマロやリプライで言葉を届ければ丁寧な反応が返ってくるし、ティーンエイジャーに相応しいエゴサりょくで常に自分に関する話題をウォッチしているし、それに対しての反応もする。
分かりやすく言うと、領民の陳情によく耳を傾けて対応するとか、酒場で領主を噂をしてたら隣から領主が話しかけてきたみたいなかんじだ。

決して対等の立場にはなってくれないが、よく領民を気にかけ声を聴く領主。
まさに「教祖でもなく友人でもなく」を体現する理想的な領主と言えるだろう。

九条林檎No.5が恐ろしいのは、このスタンスが当初から一貫していることだ。
今でこそ多くのファンを従える彼女だが、オーディション序盤はファンも少なく順位も低かった。
その頃から公式以外のフォローをしていない。フォローファンが増えてから対応したのではなく、ファンが少数で増える見込みもない頃から一貫してフォローしていないのだ。
僅かな領民を抱え予選落ちが見えている状況下で理想的な領主としての姿勢を貫き続ける。
一体どれだけの人間又は吸血鬼に同じことをできるだろうか。
恐らくだが、その振る舞いは天性のものではないだろう。
兎の見立てでは、彼女はどちらかというと持たざる者だ。
持たざる者が、弛まぬ研鑽と思索の果てに掴んだもの。それを支えに彼女は今立っている。

全部完全に兎の想像だけど、兎はその姿を美しいと思うのです。

(余談)
フォローしない理由は他にもある、と兎は見ているのだけど、その話は機会があれば別の記事で。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?