謎の肉

もう充分なのでは、と夜道ふと思ったりする。20代の頃、30歳まで生きる事は無いと思っていた。理由はわからない。ただ、こんな甘っちょろい、自分の事だけで手いっぱいな人間が、人様の寿命を真っ当に辿れると思っていなかったからだろうか。精一杯、命を前借りして30歳までの人生を、足早に生きた。そして、くたばっていたであろう、約束の30歳をあっという間に過ぎ、勢い余って盛大に躓き、人生、あともう半分か、という所まで来た。昔は1年長いな、と思っていたが、今や、「新年明けまして」といっていたと思ったら、1月のフィルムと12月のフィルムをつないだ様に、はい、年末、である。

18歳で初めて男と付き合い、そこからずっと付き合う相手の人生に乗っかって生きてきた。一人で暮らしたのはほんの一瞬で、それ以外はずっと誰かと暮らしていたのだ。それが、この年になって、一人で暮らすことになっている。
今、誰とも付き合っていないのかといえば、付き合っていない事になるのだろうけれど、正式に契約を破棄した訳でもないので、宙ぶらりんのままだ。簡単に清算できるとも思っていないが、もう会うことも無いだろうとも思っている。月に一回来る長文のメールに、元気に返信し、それっきりの状態が続く。元気そうだが、それ以上の感情は無い。こんな結末になるなんて、と憤りを覚えつつも、きっとお互いさまな部分もあったのだろうし、何も誰も私達を責める事はできない。それは、互いであっても。

自由と孤独は双生児であり、同じ側面を持つ。付き合っていた人に使っていた時間からの自由と引き換えに、色んな友人ができ、これはこれで楽しいな、と思っている。しかし、出会いとは大概にして消費が原則で、ヤるだのヤらないだの、誰のモノだそうじゃないだの、何をするだのしないだの。そういった利害の渦中に辟易したりする。だったら、物言わぬ肉塊となり、食わず飲まずで床で朽ちたいと考えたりもする。でも、それで生きた事になるのだろうか、そんな矛盾と仲良しこよしを続けている。

小さな楽しみを見つけては、楽しんだ後にちょっと傷ついて、いつまでこんな状態が続くのだろうかと悲しくなったりする。先が見えない。いや、そもそも先なんて誰にも見えないのだから、気にせずこういうものなのだと受け入れるのが「正」なのだろうな。自分を裁くのは自分で、満足しない事に、望まない事に、気をつかう脳みその容量自体、無駄なのだろう。

では、何故、こうも悲しいのか。脳病の所為なのだろうか。そもそも消費にうんざりしたからこそ、誰か1人で充分だと決めたのでは無かっただろうか。しかし、ここでも出てくる「たった一人のために、閉じた世界で生活し、それで生きた事になるのだろうか」という感情。厄介で、面倒くさい。矛盾と、乖離を両手一杯に抱えて、生き辛いなぁ、と右往左往している。責任から逃れて、覚悟もなく、曖昧なまま生きていきたいだけなのだろうか。そんな人生の、上限値はここまでなのだろうか。

もう充分楽しかったね。それで、もういっか。どうせどこかで運の尽きなら、幕引きを選んでいくもの良いのでは。期限など決めずに、だらだらせず、正々堂々と。何がその人にとっての一番の幸せかなんて、他人が測るものでもないのだから。

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