テスカトリポカ

年が明けた。

テレビにアンテナ線をつないでいないのと、独り暮らしを始めテレビが一つしかない今年。去年のように、一つのモニターでゲームをしながらカウントダウン系のyoutubeを見つつ、もう一つのモニターで年末番組を見て「ああ、新年なのだな」と感じられることは無い。
漠然と、23:59から00:00となり、2023年は終わった。
年が明けるとレベルが上がったり、スキルポイントが割り振られるようになる訳でもない。そもそも年明けの実感などあってもなくてもいいものではあるが「節目」という意識が芽生え、過去は過去になっていく感じがするのは、少し不思議である。さらば昔よ。こんにちは過去よ。

しかし、流石に味気無いので、膝に乗っている猫達に「新年あけましておめでとう」と声をかけてみる。ブロロと喉を鳴らすだけで、特段いつもと変わらない反応である。暖房を入れると、膝から離れていく様な利己的な生き物ではあるものの、年明け時に律義にこの身に収まってくれているのは可愛いものである。

そんな緩やかに、孤独や無縁死の影を感じつつも、年末年始は色んな人と過ごす事ができ、誰か決まった人と過ごすものとは違った新年を過ごした。
多分、もう一つの世界線での私は、おせちでもつつきながら、テレビにツッコミをいれつつ、祝い酒を飲んでいたに違いない。
しかし、この人とクリスマス会をしたり、この人と新年会をしたり、この人と初詣をしたり、全く知らない人に軽く初めましてをしたり、その中で色んな話をしたり。ありがたいな、と思った。
もっと交友関係を広げたいし、もっと色んなコミュニティに参加したりしてみたい。この年になってまだ遅くなければ。

初詣は、なんとか良い神社に通う事ができた。
毎年、ありきたりに「今年も良い年になるように〜」的な事をダラダラお願いしたりするのだが、今回は、手を合わせながら、「この先どうなるかはわからない。ただ、誰か決まった人が今年末までに決まらず、或いは、もう独りで生きるのだ、と決断ができなければ、この命、天命を全うしたはずですので、お返しします」と神前で宣言した。まるで神を相手どっておいて脅している様な、究極の選択を迫っているが、ついて出たものは仕方ない。浮かんできてしまった。

誰かの為に与え、与えられない人生など、私にとっては到底価値があるとは思えない。その考えも、今後色んな人の価値観と再度触れれば変わる可能性もあるが、今の所は何か間違っている、という感じが強い。
こういうのは、きっと生い立ちが左右するものなのだろうな、と思ったりしている。両親は、たとえ仲が悪くなったり良くなったりを繰り返しながらも一つ屋根の下で健在であり、私はオーソドックスにイベント事を消化していく平々凡々な家庭で育っており、やはり、そういった人生を歩むのが、正しいと思ってしまっているのであろう。
1人は気楽だが、それで生きた事になるのか、という心情が強い。

神を相手取って究極の選択を試し、これを読む人も、どこかただ事ではない気持ちになるのだろう。けれど、試さずにはいられない。訊かずにはいられない。私が生きて居ていいのか、そして歩んだこの道が、地図でいうどのあたりなのかと。最後の時はどう幕引きするのが潔いのかと。

矛盾を抱えている。
そう示唆したのは誰だっただろうか。
生きたいという気持ちと、居なくなりたいという気持ち。相反する気持ちが、常に私にはある。大人になろうが、結局は変わらなかったね。沢山遊びたい気持ちもあるのに、そういうのは必要ないという気持ちもある。矛盾している。したければしたらいいと人はいう。やりたいことがあれば、迷いなくしたら良いという人もいる。それでも、結局は静を選び、楽な方を選んでいる。楽しいってなんだっけ。私が好きなことってなんだっけ。枝葉にわかれる人生の中で、常に迷い淀んでいる。

紫煙は揺蕩い、おしまいの音を聞く。
どこまで行っても、終わらない「自分らしさ」や「自分であること」への執着。生きたかった人もいよう、もっと人生が欲しかった人もいよう。私は贅沢な思考と仲良くやりながら、少しずつ、タイムリミットを思う。自分を贄として、瞬きの終わりとして。
充分に被害者ぶったので、後は、清算するだけ。
ご破算で願いましては。

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