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〈しかる依存〉がとまらない

村中直人 著 紀伊國屋書店 978−4−314−01188−4

ちゃんみーさんに薦められて読んだ。
人はなぜ叱るのか?叱ることによって相手に恨みを買いかねないリスクを犯してまでなぜ?
それは集団生活を維持するために集団の規範を破るメンバーに対して罰を与え、秩序を守る。この「利他的処罰」が脳内報酬で備わったことで欲求となった個体の集団が生き延びてきた、といういうことだ。
この本を読む前にちょうど読んでいた中野信子の「脳の闇」という新書にもちょうど同じテーマの章があり、同様の説明であった。
さらに、この脳内報酬は集団の利益と関係なく、他者を処罰したいという欲求に暴走しがちだ、とのことだ。

そして、集団のために処罰したとしても、その効果は芳しくない、とのこと。再犯率を下げることもないとのこと。
では、なぜそのような処罰欲求が組み込まれた集団が生存に有利だったのか?

恐らく、処罰欲求は、集団の秩序が守れない個体を「更生」させることより、「排除」するための機能だったのではないか?と思われる。birth control などは近代になってからのこと、衣食住を確保できれば個体数が問題になることはなかったであろう。だから「だめなものは排除する」でよかった、むしろ、食料事情が不安定だったから、少数精鋭にする必要があったと予想される。

人類史上まれにみる「余裕」が社会にできたから集団の秩序を乱すものを「排除」ではなく「更生」させよう、と時代が変わって、これが処罰欲求を法廷に引きずり出した、とも見える。

生存に適さないものを「更生(あるいは教育)」するか、「排除」するかは秩序を破った場合に限らない。
かつては多くの社会で大人への「通過儀礼」があり、それはまさにそのselectionだ。バンジージャンプ、兵役など。自然や社会からの制約が厳しければselectionは過酷になる。社会に余裕が出てくれば「排除」することを「野蛮だ」とやり玉に挙げる。今、テクノロジーが発展して自然からの制約を緩くできたから「排除」を減らせる、秩序を乱すものを「更生」させる「余裕」があるだけに過ぎない。

ともあれ、「更生」させる余裕ができた社会においては処罰欲求は誰のためにもならないとのこと。これを克服するには……といろいろとあり、中野信子の書いていた「メタ認知」的なこともあった。己の欲求であること、効果がないことの自覚。自分の規範と相手の規範との擦り合わせなど。

「更生」について
恐らくこれについて多くの人々は信じていないと思う。
子供については発達過程だから成長して多くの課題を解決するようになると期待できる。でも、大人についてはかなり難しいだろう。アルコールを含める薬物中毒については「処罰より治療」ということにまったく賛成である。薬物で脳を占領された気の毒な病人であるから。病人を「淘汰されるべき弱い個体」とせず、社会保障で救済するなら薬物中毒もそうして然るべき。
しかし、それ以外の逸脱者は?大人の犯罪者、再犯をくりかえす人、凶悪犯は?かなりの場合、「更生など無理」「だめな奴」。「刑務所で税金を使わせる価値もない」と思われているのではないだろうか。そのような対象については「被害相応を処罰を与えて当然」と考えられているのではないか。

neurodivergenceという考え方はまさに科学的だと思う。犯罪者もたまたまそういう善悪の判断が欠如した神経回路を持って生まれてしまっただけだと思う。無差別大量殺人事件では、よく、「なぜ凶行にいたったか理由を知りたい」という遺族らのコメントがあるが、ナンセンスだと思う。
以前ツイートの言い争いで私は「私の家族が殺人鬼にみな殺されたとしても、犯人に対してなにも感じることはないだろう」と言った。罰を受けてもらいたいとも思わない。人間のバリーエーションの一つなだけ。それに運悪く出くわしてしまっただけ。雷が落ちたのと同じ。たまたま自分や多くの人がそうでないだけなのである。

食欲は誰しもあって尊重されるべき。しかし、盗食は許されない。筆者も(性欲は種の保存のために必要な欲求だが)「強姦はぜったいいけない」と断言している。しかし、neurodivergenceを唱うなら、このような逸脱する欲求を持つ個体の扱いに道筋をつけなければいけない。nero-をつけなくても今高らかに唱われている「多様性divercity」を「排除」「矯正」でなく受け入れるとしたらこれに答えなければならない。
逸脱する欲求をコントロールするために薬剤を使用するか?それは人権を、尊厳を尊重していると言えるのか?どこで線を引くのか?その線引きは傲慢にも思えるのはなぜだろう?

ついこの間まで生存、種の繁栄、社会の維持に必要だった「欲求」の数々が社会に余裕ができた途端、「野蛮」だとやり玉にあがる。「大脳新皮質v.s.扁桃体」の図式。「暴力」や「怒り(叱り)」を封印したままの社会はあり得るのだろうか?そういう中で育った人間が、「野蛮な」暴力や精神的圧力というチャレンジを受けたら?これは逸脱したdivergenceを持つひとを抑え込む場合にも課題となる。「蛮性」に対抗する力を大脳新皮質だけで生み出せるのだろうか?

これは平安時代の貴族の武家への蔑視、中国の官僚制の武闘派への蔑視の構図に近接しているようで興味深い。しかし、実際には力の前に屈してしまう。ちょうど以前ちゃんみーさんに話した「超時空要塞マクロス」に描かれている世界であるが、プロトカルチャーが無傷で勝利することは史実にはない。中国は武力で勝る周辺民族に支配されるし、日本でも近世まで武家が(貴族化はするが)政権を握っていた。古代ギリシャもペロポネソス戦争で軍事主導のスパルタがアテネを破る(しかし、歴史で語られるギリシャはアテネばかりだ)。
アジア映画初のアメリカアカデミー作品賞に輝いた韓国映画「パラサイト」でもっとも印象に残っているのは「医者らしくない医者と、警察官らしくない警察」というナレーションだった。格差の固定化した社会で、公職につくのが世襲的になり、医者や警察という、緊急事態に対応する必要がある職に、その緊迫感が感じられない、ただの育ちのいい人がなっている、ということだと感じた。非常事態に対応する扁桃体の働きが希薄で、お育ちのいい大脳新皮質だけで生きているような。それで本当に職務を果たせるのか、国は違えど、感ずるものが同じなのだろう。

逸脱者の抑え込み、対外的な暴力に対してはしばらく警察機能は必要であろう。先に述べた欲求コントロールも実用化できるかもしれないが、前世紀に行われたロボトミー手術同様、「人格操作」という倫理的問題を超えなければいけない。
そしてその正義のはずの武力に対しても、かつて検非違使がうけたような潜在的な侮蔑は避けられないだろう。「毒をもって毒を制す」見え隠れする扁桃体をお高くとまった大脳新皮質は陰では見下している。守ってもらっているのに。

自分の身の回りが汚れなければきれいごとを言う人間は少なくない。帝国主義時代にあれだけ植民地を蹂躙してきた西欧社会が、今正義の味方のように「人権」など振りかざすなど、そんな偽善や欺瞞に満ちている。環境問題も実際に大きな問題だろうけれど、さんざん環境を破壊して、蜜を吸った国に言われても、というところだろう。

未来のために資本主義を見直そう、と言っても、資本主義で余裕ができたから言えていることだ。実際にはglobal southと言われる地域から搾取をしている前提での話だ。ただのきれいごとにしか聞こえない。実際に彼らに不公平なく、地球の資源を完全に平等に分配したら……大脳新皮質が作る、そのような勾配のない世界がユートピアなのか、死の静寂の世界なのか。きっとみんな二の足を踏むだろう。少なくとも野蛮さで現代を謳歌している社会の人間は。
扁桃体と大脳新皮質のせめぎ合いは地球規模で起きている。

話が大きくなりすぎたが、実務的な興味を最後に。
叱ることが行動変容、技術、知識習得、に効果がないとしたら、現在、軍の新兵教育はどうなっているのだろう?「鬼軍曹」を連想させる究極の厳しい現場だったと想像している。
少子化の折、わずかな新兵志願者をもう「淘汰」する余裕はないはず。そうであれば「排除」しかしない「叱る」新兵教育はもう放棄していなくてはいけないのではないだろうか?それとも「暴性」を植え付けるために扁桃体に働きかけることは辞められないのか?
元自衛官の芸人、やすこを見てそんなことも頭をよぎった。


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