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言葉の定義⑥


こんばんわ
(書いたのが夜なんで)


最近これといったものはないけどとても調子が良いです。なんだか良い。

とは言ったものの調子が悪いことが一つ
ここ数日、ママの作ったカレーが続く日々。もう冬みたいにたくさん作って「今週はこれだよ!」みたいのはできない季節かと思ってたけど、まだママはやるらしい。とりあえずこのカレーがそういうのの最後かもしれない。
悩みはここから

家で食べるカレーってそのヒトヒトの個がすごい顕著に出るもんだと思ってましてて、甘口辛口なんてもんはちがうし、さらにはなにトッピングする論を展じることですらできると思うんですよね。そのまんまはママに申し訳ないけどつまらない。ぼくは目玉焼き。ただこれが一番つまづくんです。

なぜだか絶対に目玉焼きを二つ一気に作って乗せるのが僕流。理想は二つとも幕の張らない黄身がトロぉっとでてくるくらいのさじ加減で「二つとも成功」がベストなんですけど、これまたなぜか片方は必ず失敗(黄身がブワァ)するんですよね。すごい悩みます。まず卵の割り方に問題がある気がする。いや、はたまた落とす高さが高いのかな?

そんなこんなで今日で4日目のカレー。(卵は8個消費)成功なるか?いただきマス。


さて、少し前回から間が空きました。

写真を撮ることが好きなんですけど、ご縁もあって少しいろんな人に見せれる機会ができたのでそっちの準備に充ててました。
まだまだ準備途中ですが、気分転換に綴ろうかと。  


今日の内容は

「主観と客観」

です。

意味はわかると思います。
よく〜的にっていう形で使いますよね
今回はそんな対比するこの2つの言葉をぼくなりに定義してみます。

まずこんな視点からこの2つの言葉を括ってみました。
「この世界、主観客観は何対何の比で存在しているのだろうか?」と。
ん〜実にマニアックで変人な捉え方。


ぼくの出した答えはこうです。

「9:1」

うわ〜極端ッ。ちょっとありがちな張り切り方をしましたが、これもぼくの主観なんで…笑

主観が9割、客観は1割。

これは別に統計的な結果から導き出したものでもなく、ほぼ主観に溢れていると常々思うことがあるのでこうしてみました。もちろん、客観が1割ある理由もあります。


なんで主観が9割か。という話より、逆になぜ客観は1割なのかを話した方がわかりやすいと思うのでそうします。

そもそも主観的な視点とかいうそんな言葉に言い換えなくても常に人は主観であるから、ある種当たり前のことをカッコよく言っているだけみたいなところはあるんですよね。
ではそんな皮肉ったように主観を言うなれば、なにを主観という!と言われそうデス

客観が少ないと感じるのは、結局主観に結びついてしまうことがほとんどと感じたからです。

わかりやすく例を挙げてみましょう。

・客観的視点の評価

これ、要するに主観の集まりを総合的に客観的視点という括りにしているという考え方できますか?
例えば、何かの競技のアスリートを「客観的に評価すると〜点だね」というシチュエーションがあったとします。
けど、どこかでいろんな主観が評価をしているからこそそれを集めて客観的に評価していることになっているだけだと思うのです。(頭混乱しますよね。笑)

他にも挙げてみましょうか。

・自分がスニーカーは裸足で履くべきであると思うのは「主観的」な考えです。しかし、他の人や一般的な視点では「靴擦れができそう」「足が蒸れそう」「靴下を履くべきだ」といった客観的な意見が出てくることが考えられます。けど、この客観もどこかで主観であるのです。
「靴擦れができそう」と思ったAさんの主観。
「足が蒸れそう」と思ったBさんの主観。
「靴下を履くべきだ」と思ったCさんの主観。

この世は主観のオンパレードです。

これを「主観的客観」とします。

客観視には自らの思いや感情、期待や経験値、知識などから完全に切り離して考える必要があります。
俯瞰という言葉と似てるかもしれません。
ただ、俯瞰というのは視点の物理的な意味合いを表現しているような言葉で、「高い場所から見下ろす」ということです。
客観は、自分を軸としてそこから離れて色んなものを見てみるという意味合いでしょうか。

つまり、俯瞰には主観が混じっていても構わないのです。上から自分を主観的に見ればいいのです。
けど客観は、「主観のフィルター」を完全に外さなければいけません。

周りの人のことを考えた行動や言動だったとしても、予想していなかった反応や相手を感情的にさせてしまった経験ありませんか?
それはまだ主観を抜け出せていない客観的判断による結果なのです。
要するに言葉の性質上、主観と客観という言葉は対比しているものではないと思うんですよね。

じゃ1割の客観ってなにか。というと

SNS

別に否定しているわけではありません。今日(コンニチ)にはなくてはならない存在ですし、ソーシャルライフの核にもなりうるものですから。
ただ、やはりSNS上での評価や酷評は客観であると思います。
もちろん評価する個々は主観的作業なので主観に辿り着くのですが、その評価の存在は完全に客観的なものであると私は思います。
いいねやリツイートなどをしている人の顔がわからない世界ほど端的な評価はありません。
それも一つの判断材料にはいいかもしれませんが、そんなものを鵜呑みにしてしまった時には自我は無くなったようなものです。
やはり直接人に会って話してそれで評価してもらう。これ、すごい初歩的だけどすごい大切なことだと思います。

「最先端」とは上手に付き合っていきたいものです。

温故知新。古きを訪ねて新しきを知る。
こんな今だからこそそんなこと考えるのも面白いと思いますネ。


また制作準備に戻りマス
近日公開です。よーチェケラ!


では。

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