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【小説】烏有にキス


月曜日 6:25

 朧げな輪郭の中に雄々しい旋律が割り込んできて、私の意識は覚醒した。お気に入りのクラシックをアラームに設定しているのに、寝起きの不快さが上書きされて、徐々にこの曲が嫌いになっていく。こうして私は、好きなものが年々減っていくのだと思う。
 ゆっくりと体を起こしかけた動作が途中で制限される。直接的な頭皮の痛み。肘で髪を押し潰していることに気が付いて、体勢を変え毛束を救出した。2年も伸ばした女の命。いや、正確には勝手に伸びているだけなのだ。そこに私の意思はない。
 鏡を覗く。思った程の寝癖はなくて安心した。今日は巻いてみようかと思ったけれど、先週ヘアアイロンが壊れたことを思い出した。電化製品を捨てるのは何曜日だったっけ。
 高く結わえると頭痛に繋がるから、今日も緩くうなじで纏めるだけ。この髪型がとても洗練されていないことくらい理解している。でも、アイロンを失った私にはこれしか残されていないのだ。
 いつだってそうだ。私は、使えもしないゴミを手放すこともできないまま、途方に暮れている。 

火曜日 8:41

 朝のデスクの冷たさを感じながらパソコンを立ち上げていると、甘ったるい声が隣の席へやってきた。
「おはようございまぁす」
 視線をやれば、昨日までのミディアムヘアを軽やかなボブカットに変化させた後輩と目が合った。
「いいね、髪。可愛い」
「ありがとうございますぅ」
 小首を傾げてわざと髪を揺らす後輩は、己の愛らしさをどこまでも自覚していて、かしこい。頭のいい人間は好きだ。
「先輩は伸ばしてるんですか?」
「知らない。勝手に伸びてくの」
「なにそれ。面白い」
 私なんかにもしっかり愛嬌を振りまいて、ころころと笑う後輩の毛先が揺れる。昨日より10cmは高い位置で。彼女が通うという有名なサロンで切り落とした髪は、もう燃えるゴミになったのだろうか。
 通りがかった男性社員が「失恋でもしたの?」と、一周回って昨今は聞かなくなった定型句を下卑た笑みと共に投げてきた。まだ口にする人がいたことに驚きだ。
「今時失恋で髪切るなんてないですよぉ」
 そうだ。失恋したならむしろ、髪を切ってはならない。

水曜日 12:38

 ランチを食べ終えたが、デスクに戻るには早いこの時間は、なんだか居心地が悪い。無料のお茶を口に運びながら鞄を探る。忍ばせたお守りが手に触れた。携帯はどこにしまったっけ。
 ようやく探り当て引っ張り出し、意味もなくSNSを開いた。ベルトコンベアーに無造作に載せられた情報を、気まぐれに拾っていく。
 生活指導の名目で教師に髪を切られた生徒。他人の髪を無断で切ると暴行罪にあたるらしい。
 引退セレモニーで涙を流した力士。大切な髷を切っても暴行罪にはあたらないらしい。
 両者の何が違うんだろうか。失った方は二人とも泣いていたのに。 

木曜日 19:05

 予約の時間を過ぎてからようやく席へと案内された。シックで落ち着いた内装のこのサロンは、有名店ではないけれど私の気に入りだ。平日だというのに繁盛しているらしい。喜ばしいことである。相性のいい美容師と出会えることは稀なのだから、できるだけ長く営業を続けていてほしい。適度に会話をし、適度に放っておいてくれる彼女が、私の背後に立ち鏡越しに笑いかけた。
「今日はどうします?」
「軽くしてください」
「毛先にちょっとダメージがありますが…」
 彼女に次の言葉を言わせないように「じゃあトリートメントも」とにっこり笑う。弁えている彼女は営業スマイルで頷いた。
 私がなんらかの理由で髪を切ろうとしないことを彼女は知っている。ただ、その理由はこれからも話すつもりはない。誰にも理解されないだろうことはわかっているし、相性のいい彼女を困惑させたくもない。
 隣の椅子に座った若い女の子が嬉々とした声をあげた。
「ヘアドネーションしたいんです。もう少し伸びたら」
 ここ数年でよく聞くようになった単語。切った髪を小児がん患者のウィッグ用に提供するボランティアのことだ。どうせ不要な物だから、せっかくなら誰かのために役立てたいという純粋な善意。素晴らしい行為だ。ゴミでお手軽に気持ち良くなれる。
 私が隣の会話に聞き耳を立てていることに気づいた彼女が小さく聞いた。「興味あります? ドネーション」
 私の、この自意識の塊を、人様にあげる? なんて、なんて、申し訳ない。

金曜日 22:56

 髪が伸びて、途端に風呂が苦手になった。頭を洗うのはとにかく面倒で、きちんと泡立てるのにも力がいる。シャンプーの減りも早い。指に絡まる長い髪はホラー映画さながらで、排水溝の掃除もこまめにやらなければならない。が、真に億劫なのは、風呂の後。髪を乾かすという行為である。腕を高く上げ続けるのは意外に疲れるものだ。全体が乾くまで10分はその体勢を維持しなければならない。
 とてもドライヤーを持つ気になれなくて、裸のままで鏡に向かう。だらしなく肌に張り付いた髪はうまい具合に胸部を隠す。同じような構図のアイドルの写真集を見たことがあるが、鏡に映る女にはまるで色気がない。アイドルがその内に秘密を隠しているのに対し、私が覆い隠しているものは干乾びたセンチメンタルだ。当然、醜悪。
 感傷に浸りかけて馬鹿馬鹿しくなり、転がっていた服を身に着け、ようやくドライヤーを引き出した。スイッチを入れると同時に、耳障りなファンの音を絡めて熱風がぶつかってくる。昨日のトリートメントのおかげで多少は指通りがよくなった。感触を楽しんでいると、突然頭皮に痛みを感じた。見ると、ドライヤーの吸込口に数本の髪が巻き込まれている。いつもこうだ。気を付けていても、バサバサと散らばる髪が内蔵のファンに絡まって、どうやっても取れなくなる。そうなるともう引きちぎるしかない。
 また、あの日の私が失われてしまった。3本も。

土曜日 25:12

「ショートヘアー似合うよね。好き」
 頭を撫でながら彼が言った。事あるごとに髪に触れる人だった。だから私は磨き上げた。高いシャンプー、いい香りのヘアオイル、頻繁なサロン通い、全部彼の指を楽しませるため。
 見るともなしに垂れ流していたテレビから、人間の細胞は数年で全てが入れ変わるという話が聞こえてきた。
「数年経ったら別人になるんだね」
 彼が呟く。
「それって別人って言うの? 私は私だよ」
 数年後の自分がどうなっているかはわからないけれど、何があってもこの日常は変わらないと、何故だかそんな自信に溢れていた。
「いつか俺の知らない人間になっちゃわない?」
「ならないよ。毎日一緒にいるんだから」
 彼は満足そうに微笑んで私の頭に口づけた。

  薄目を開けると、見慣れた部屋の中。カーテンの向こうは闇で、まだ真夜中ということが窺い知れた。
 夢の中の顔は朧気だった。確かに聞いたはずの声も思い出せない。入れ替わった脳細胞が記憶のコピーに失敗したんだと思う。思い出は風化と劣化を繰り返し、いつしか全然別の物になっていく。あの日握った手も、合わせた唇も、細胞はとっくに生まれ変わってしまっただろう。
 私の肉体で彼が直接触れたものは、もうこの髪だけなのだ。髪だけが本当の彼を覚えている。 

日曜日 時間は忘れた

「あれ、久しぶり」
 瞬間、心臓が痛いほど跳ねて、全身が硬直した。改札の前の雑踏の中なのに何の音も聞こえなくなった。なぜ今? なぜここに? 二年の間、偶然会えやしないかと、よく遊んだ繁華街や行きつけの店の前を何度もうろついたけれど、一度だって姿を見かけたこともなかったのに。
 彼がいた。奇跡のようにそこに立って、少し困った表情で笑いかけている。二年前と同じ笑顔だ。泣きたくなって、抱きつきたくなって、けれども足が動かなくて、ただ爪先を丸めた。彼が近づいてきても、逃げることも駆け寄ることもできない。
 触って欲しい。前みたいに。触らないで。破裂してしまう。
「なんだか変わったね」
 あぁ思い出した。この声だ。眠っていた細胞が呼び起こされる感覚。私の中にちゃんと彼は残っていた。感動に打ち震えながらも、それを気取られないように、小首を傾げて答えた。少しだけ後輩の仕草を思い出しながら。「細胞が入れ替わったからね」
 あの日の、なんでもない土曜日の、幸せだった会話を再現する。なかなかの返しではないか。しかし、私の手応えとは裏腹に彼は曖昧に微笑んだ。「細胞? 何それ?」
 ……あぁ何も、何も覚えてやしない。私達はとっくに終わったのだ。改めて突き付けられた事実。足先が急激に冷えていく。二年前の彼に縋るように、髪をいじる。すると目の前の彼は呟いた。
「やっぱり俺はショートの方が好きだな」
 言葉が出なかった。この男は何をぬけぬけと言い放ったのだろう。そんな言葉を並べれば、私が髪を切ると当たり前に信じている。
 私のこの変化が、(実際にはどこにも進めなかっただけのこの見てくれが)例えば新しい男の趣味だとは微塵も思わない。私がまだ好意を持っていることを疑いもしない。(実際好意は持っている)けれどそれは過去のこの人に対してで、今目の前でへらへらしている男などではない。(騙されるな)こいつはもう細胞が入れ替わった。(別人だ)二年も経った。(私は何も変わってないのに)二年も離れていたくせに。(今更会いたくなかった)会いたかった。ぐちゃぐちゃだ。眩暈がする。うるさい。心臓が。呼吸が。跡も形も全部消えてなくなって………… 

 周囲から小さな悲鳴があがって、私はようやく落ち着きを取り戻した。耳元でたてた爽快な音。握りしめた毛束。あぁ、いつもお守りを持ち歩いていてよかった。私は鋏で己の髪を切り落としていた。
 引き攣った懐かしい顔が視界の端に映ったけれど、そんなことはどうでもいい。零れ落ちた数本の髪も残さず拾い上げて、私はその場を駆けだした。

  最速で玄関の鍵を開け、ヒールを脱ぎ捨てると、鞄に手を突っ込んでまたお守りを握りしめた。不格好に切断された髪が頬にかかる。どうしようもなく興奮した私の熱を、鋭利な刃先が吸い取るようで気持ちがいい。小気味よい音と共に髪を殺していく。何度も何度も鋏を入れて、彼が触った部分をすっかり切り離した。床に散らばった髪を拾い上げ、唇に強く強く押し付けた。死んだ髪は途端に鋭く硬質で、小さく肌を刺激する。もう私じゃない。二年前の二人が今ここでくたばった。とてつもない解放感と喪失感。私はとても愉快になって床を転げまわり、それから声を上げて泣いた。

 思う存分感触を楽しんだあとで、二人の死体を一本残らずゴミ箱に捨てた。ヘアアイロンのように迷わなくていい。燃えるゴミの日は、月曜日だ。

〈完〉

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