私たちはどこに向かって生きるのか

いずれ、なくなるこの命
どこへ向かって生きていくのでしょうか

君たちはどう生きるのかと問われた夏
私たちはどこに向かって生きるのかと悩む夏

私は愛する地元愛媛を離れここ神奈川で社会の波を全身で受けてぎりぎりで立っている元高専生だ

私という外縁は周囲の人たちから形成されていた

いつも一緒にいる友達、家に帰れば温かい家族、ユニークで優しい先生達、大好きな後輩先輩
見渡す限りの緑の山々に、人気のない商店街、優しいさざなみを打つ瀬戸内の広大な海

私を作っている全ては愛媛にあった
それもそう、20年もそこで生きていたのだ

そして今、私は初めて、私とだけで生きている
私は私と初めて、かれこれ4ヶ月近く対峙している

外縁を失い、私という形を崩すまいと、私は私らしく生きていた。みんなからみた私はいったいどのようなもので、どのように映っていたのか、それを手繰り寄せて知らぬ間に私は私を崩さないように生きていた。

わたしは社会人とかいうつまらん型にハマりたく無かった。それは私らしく生きるということに拍車をかけた

その結果招いたのは怪我病気心傷だった
私は私のせいで怪我をするし、病気もするし、傷つきもする。

私から夏を奪ったのは、自由を奪ったのは、幸せを奪ったのは他の誰でもない私である。

そこまで客観視できると途端に立ち上がれなくなる。
真っ黒な感情に襲われて右も左もわからなくなる。
不幸にも私を支えてくれる友達や家族はみんな遠く離れて散っている。

私には私しかいない。
自分を大切にできない人から社会の中で死んでいく。
静かに、ゆっくりと蝕んで、気づいたら、何かを感じるという大切なものを失っている。

幸せだとか、感動だとか、そういうものがたくさん降り注いでも底の空いた瓶だ。
何もたまらず、ただ事実として記録だけが残っている。

私は、私たちは、いったい、いつまで、この悲しみや苦しみを抱えて生きるのだろうか。
死ぬことが終わりなのならば、私はいったい死ぬまでに、どこに向かって生きていけばいいのだろう。

それでも私たちは生きている。
死ぬまでの惰性か、生きることの幸せか、
それぞれに何かを抱えてどこかへ行き、どこかへ帰る。

それを繰り返して私たちは生きることを重ねている。
その重ねた先にあるのは死なのに間違いないが、いったいそれはどこに向かって積まれていくのか。

私が私と対峙することで初めて感じた、生きるということです。



明日からまた日常へ、さようなら、夏。

私は周囲を何よりも愛しているよ、
小さな虫から広大に広がる空、知らないあなたにそこに立つ人々、目に映る全てを愛しているよ、どうか生きて、感じて、好きな人、大切な人、愛している人にたくさん恵まれますように。

私を愛してくれる周囲のみんな、万物、ありがとう。
わたしは貴方達がなによりも宝物で、ずっと大切です。
たとえ私が私じゃなくなったとしても、変わらず愛し続けるでしょう。

さようなら、わたし

私はどこへ向かって生きるのだろうか

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