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「僕は将来どうなりたいんだろう」とかいうありきたりな問いとその考察。

最近は才能に嫉妬するようになっていた。

YOASOBIさんの曲であったり、約ネバのストーリーだったり、超学生さんの歌唱力だったり。

楽しむ…という視点を放棄したわけではない。

僕はガキの頃からカゲプロを通してボカロの沼に浸り、イナズマイレブンからアニヲタとなり。

今や、米津玄師へと羽化したハチの声をきき、シン・エヴァンゲリオンにむけ旧作を復習している。

…彼らのおかげで、毎日の自宅が最高の遊園地だ。

ただある時、僕に癒しだったり、楽しみを与えてくれていた数々のエンターテイメントが「覚悟」「才能」「努力」といった類の塊であることを認識した。

この文章は何者でもない僕が天才と比較してただ落ち込むというくだらないものだ。ただ、最後の方に決意証明なるものをしたらしいからそっと見届けてほしい。

さて話を戻そう。

先述した「ある時」というのはおそらく油彩画を通して、作品における時間的な奥行きに興味を持ち始めたからだろう。

例えば、絵画。そしてその絵画の例として「モナリザ」を挙げよう。

あれなんかは時間的な奥行きを感じる見方で鑑賞するとまた別の一面を感じることができる。

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さてこの絵、あなたはどう観る?

僕の想像だが、おそらく一般的な見方は

「教科書でみた ゴッホの作品 名作」

などではないだろうか。…これは僕が大学で油彩画に出会う前の視点だ。

作品を完成品として見て、学校で断片的に学んだ世界史あたりの知識と結びつけ、「おぉー」と唸る。

では、油彩画と出会ってからはどうだろう。

「肌の層 瞳の表現 服における光沢」

油彩画というのはどうも奥が深いらしい。なんといっても半年経っても絵具は乾かないからだ。水彩画であれば仮に間違えたとしてもある程度かわけばその上から塗ることで調整できる。

しかし、油彩画はそうはいかない。水彩絵具に対し、こっちは油だ。乾くことが遅いと言うことは、修正がききにくいということ。無論その道の上手な人間は、間違えすらも逆手にとり自分の作品の一部へと昇華させるが、僕のような素人は、その上から色を塗り、混ざり、黒く淀むまでがオチだ。

また、乾きにくい、つまり色を混ぜずに重ねるという表現はいくつかのステップを踏むことで色に重厚感がもたれる。もちろんそのステップを細かく分けることで対象の質感であったり影の表現に磨きがかかる。

↓の動画が参考になるだろう。

…動画を見てからもう一度モナリザを見直して欲しい。

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肌とその影の表現に圧倒的な技術と時間を感じることができるのではないだろうか。

ここらで時間的奥行きの意味を理解していただけただろうか。

まぁ一面だけで見ると平面だったものが、少し角度を変えることでとんでもない厚みを感じ取ることができるというものだ。

これの視点をあなたを楽しませているエンターテイメイントに置き換えてみてほしい。

恐ろしく感じないだろうか。

名作たちは、その道を専門としている人にとっても尊敬されている存在であり、その道を詳しく知らない人たちをも感動させることができる。

その猛者達の集まるレースをぬけて初めて我々の目や耳に作品は届くのだ。

人間は制作することで腹を満たすことはできない。

しかし創作せずにして「名作」を生み出すことはできない。

それゆえ「就職」という制度が存在し、ある程度の仕事をこなし、時間を過ごすだけでそれなりの金額をもらうことができる。

まぁ制作には時間が必要となり、また仕事も時間を必要とする事がとてつもない矛盾だ。

しかも制作はしなくても生きていけるし、制作したところでそれが身を結ぶかどうかもわからない。

だからこそ、大人になって、さまざまな選択肢があったにもかかわらず、自分の声を、思いを届けることに本気でいる彼らの「覚悟」「努力」「才能」はこの世の言葉で形容するにはおこがましい。

そしてそれほどまでに夢を叶えるということは難しいらしい。

テレビで「あの頃は大変でした」と笑う姿、「明日新曲あがります」のツイート、インスタにあがる「来てくれてありがとう」の写真。どれもとてつもなく分厚く感じるのだ。

では私はどうだろうか

結論をいうと自己嫌悪の日々だ。

彼らを憧れ、自分の日常と比較しては嫉妬の日々を過ごしていた。

去年、受験が終わり、突然現れた時間と若さ。

そしてぶつかったのは

「僕は何になりたいか」

という問い。

僕も人間の悩みあるあるに出会うらしい。

そうして始めたのが「読んで着る美術館 in the k.」

まぁやっていることはシンプル…というかすこしセコい。

やっていることは著作権切れになった絵画達を服を通して今の人々に届けるということだ。

そしてそれだけではあまりにもオリジナリティーがないということで、そこに絵画の僕なりの解釈を加える形で文章を書き始めた。

詳しいことは直接インスタグラムを覗いていただけると嬉しいな。

まぁそうやって意識高いさんの言語で言う「発信活動」なるものをスタートさせた。

はじめて五月で一年になるが、ここまで続いているのはフォロワーさんのおかげだ。僕のような稚拙な文章にそれを面白がってくれる人がいたのだ。

そして調子に乗って小説なども書いてみた。

大人さんのお仕事に混ぜてもらったりもした。

コンペなどにも応募してみた。

とまぁ、これだけ見れば順調に思えるだろう。

ただ、その過程で出会うのは怠け者であったり言い訳をする僕自身だった。(脱ニワカnoteもそういうもんのひとつだ)

イヤホンから流れるグラミーの名曲、コンビニの雑誌表紙を飾る俳優、書店に専用ブースの設置された芥川賞を獲得した女子大生。

それらのクオリティに驚き、年齢をきいては絶望し、自らを呪った。

そして、受験が終わり、そして活動を始めて一年が経とうとしている今、僕がぶち当たったのは

「僕は何になりたいのか」

結局は振り出しに戻っていた。

多分この問いはずっと付きまとうだろうなぁとかも察した。

そして最近になってなぜまだ満たされないのかなども考えた。

彼らの作品から見える奥行きと僕自身を何度も比較した。

そしてハッとした。

僕には彼らとちがって「声」がなかったのだ。

人生かけて届けたい声が、メッセージが、事柄がなかったのだ。

ただ行動している自分に酔って、振り出しに戻ったことを「成長」とか言って自惚れてるに過ぎなかったのだ。

そして、先ほどの疑問は形を変えた。

「僕の声はなんだろう」

この問いを持ち始めてから職業や肩書きに対する見方が変わった。

人がついているいる職業、そして、つきたい職業というのは、その人の持つ

に依存していることがわかった。

ケーキの美味しさを知って欲しいからケーキ屋さんになるように、

音楽の素晴らしさを知って欲しいから音楽家になる。

彫刻の素晴らしさを知って欲しいから彫刻家になる。

現場で自分の職だの人生だのに不満を、違和感を抱いている人はおそらく僕のように「声」を知らないからではないかと僕は考察する。

では僕の声はなんなのだろうか。

それはとても簡単だった。

何気ない日常を幸せに生きること、だ。

一年間、サボりながらではあるが、日常に潜む何気ない動作や作法、生活を文章を通して表現していると、少しではあるが自分の日常が華やかになった気がする。

寒さには「冷たい寒さ」と「切る寒さ」があること

雨には匂いがあること

人間の活動は「感情→動作」の繰り返しにによるということ

生きることが、死ぬまでの壮大な暇つぶしであるということ

恋愛感情が人間で最高に素敵な感情であるということ

短歌における愛の表現にときめいたこと

ストリートには言語化されない言語で溢れているということ。

こういった視点を僕は文章を通して表現してみたいのだ。いや、文章をとおして、みんなの生活をより華やかにさせてみたいんだ。


日常の素晴らしさを知ってほしいから、僕は文筆家になろうと思う。


そしてこのnoteはその一歩目にしておこう。

しっかり書いてみようと思う。少なくとももう一度同じ問いにぶつからないように。もちろん in the k. でも文字を書く。

これからこういった戯言が増える。なにせ僕は今一人暮らし前で、バイトもやめたただのニートだから。

文筆家と名乗れるよう、なんとか単語を連ねるので興味のある方はぜひ覗いていただけると嬉しいな。

長々とありがとう。

また明日。

K.










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