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高垣楓と《葦そよぐ新天地》

1,はじめに


モバゲー版シンデレラガールズのSR[新緑の淑女]高垣楓+は、豊かに葦の茂る風景の中に、白い鳥の群れを従えた女神のような姿をみせてくれます。
このロケ地がどうも、スパルタ近郊のエウロタス河畔だったのではないか。少なくともその地をイメージしていたのでは? ……というのがこの考察の出発点であり、終着点です。

スパルタというと、我々にはどうしてもレオニダス王や「スパルタ教育」という言葉によって代表される(つまり紀元前480年頃の)軍国主義イメージが強いものと思われます。
しかし[新緑の淑女]特訓後は、その当時から見ても更に遥か昔、神話の時代にあたるトロイア戦争終結直後を舞台としているようです。

私がエウロタス河畔という具体的な地名を持ち出す根拠は、たとえば以下のような台詞にあります。

今回のコンセプトは捕らわれのお姫様?([神秘の女神]+特訓直後)
○○プロデューサー、囚われの姫は飛び立ったんです…あの白い鳥のように。自由になった私に、新しい事を教えて下さい。
                                                                       ([新緑の淑女]+親愛MAX時)
始まりを告げる鐘の音…。囚われの姫は今、自由の空へと羽ばたきます。
たとえ、夜の闇が広がっていても…私は次の輝きへ羽ばたいていける。その強さをもらったと、信じていますから…([シンデレラガール]+特訓直後)

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これらの台詞によると、[神秘の女神]+と[新緑の淑女]+は、前後編でひとつの物語のヒロインであり、[シンデレラガール]と密接に結びついていることになるでしょう。[新緑の淑女]+には、SR+それぞれの背景で羽ばたいている鳥たちへの言及もあります。

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そこで私は、楓さんが以下のような条件を満たす人物に喩えられていた(あるいは演じていた)のではないかと考えました。

1)白い鳥を眷属とする女神である
2)女神と謳われつつ、人間としての身分(姫・王女)を持つ
3)囚われの身から解放されたエピソードをもっている
4)彼女にとって自由を象徴するものは、なにより葦の茂る風景である

そしてこれら全てを満たす人物を、レダの娘ヘレネと推定したのです。


とはいえ、ですね。

[神秘の女神]+は「この衣装、胸元がキャベツに似てません?」「(焼き鳥食べたい…)」などなどユーモラスな台詞でも愛され親しまれているわけですから、「深読みしすぎても野暮かな…」という気持ちも、かなり大きいわけです。ぶっちゃけた話、楓Pさんの中にはそれを察した上であえて黙っている方も相当数いらっしゃるのだろうと私は思っています。

ですから仁義をわきまえるなら、私自身が野暮を承知でこんな考察を書いてしまった理由も、できれば冒頭で述べておくべきなのでしょう。

ある時期を境にして、私は「もしも新緑の淑女がギリシア神話の女神をモチーフにしているとしたら、楓さんはカリュアイのアルテミスを演じていたのかもしれない」という空想を抱くようになりました。そして、この空想の根拠のなさを打ち崩してみたところ、現れたのは女神アルテミスではなくて、ヘレネの姿だったのです。

これはイベント『Pretty Liar』のコミュを踏まえるならば、「誰か(=私)の幻想」が「ありのままの高垣楓」や「高垣楓の憧れ」から乖離していたケースの典型例だったともいえるのではないでしょうか。

私から見ると、神秘の女神には「深読みするのは野暮」という壁があり、新緑の淑女にはそれでも深読みしたくなるなにかがあって、シンデレラガールはその幻を完全に打ち払った――ということになります。

それは、シンデレラガールに輝くことがすなわち「本当の彼女」を表現する絶好の機会であることを、帰納的に証明する材料のひとつといえるのかもしれません。

私が述べたいのは「高垣楓はシンデレラガールだから素晴らしい」ということではありません。むしろ逆で「高垣楓は私にシンデレラガールの真価を知らしめたひとりである」と、そう申し上げなければならないのです。

私は[シンデレラガール]十時愛梨+の表情を、再び思い出します。彼女の胸の内から溢れだした想いは、奔流となって行く手を阻むもの全てを押し流し、一本の道を整備したのかもしれません。その先に待っている光景を蘭子ちゃんが表現すると、カミングTV最終回のこの台詞になるようです。

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そんなわけで、楓さん自身が秘めた謎に加えて、彼女たちを「饗宴」に導いたものは一体なんなのか――という謎についても、この場で併せて述べてみたいと思います。ご興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、どうぞよろしくお付き合いください。


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2,誰かの幻想


多少遠回りになるというか、現代から数えて2500年以上も時を遡ったお話になってしまうのですが――

古代ギリシアの神殿の中には、その玄関口をカリアティードと呼ばれる柱で飾ったものがありました。これは、女性の彫刻が柱として玄関の庇を支えている凝った代物です。モバゲー版で最近開催されたギリシャアイプロでも、千枝ちゃん・美由紀ちゃんから注目されていましたね。

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ちなみに男性の彫刻が同様の役割を果たすものはアトランテスと呼ばれ、天地を支える巨人アトラスに由来するのだとか。ならば、この天地を支えて立つ世界軸(アクシス・ムンディ)とさえ呼べなくもない柱に彫りつけられた女性たちは、いったい何者だったのでしょうか。[※1]

多少調べてみたところ、これら女像柱に彫られた女性たちは、アルテミス・カリュアティス(スパルタ近郊・カリュアイにおけるアルテミスの神号)か、あるいはこの女神に仕える巫女たち(複数形でカリュアティデス)だったようなのです。[※2]

アルテミス・カリュアティスの巫女たちには、シランクスの物語と並んで、古代ギリシアにおける葦への親しみの深さをうかがわせる伝承が残されています。たとえば彼女たちは、葦の飾りを頭につけて狂ったように踊り(細くしなやかな葦によって風を切ることで、ヒュンヒュンと笛のような音を出していたものと考えられます)、時にはアテナとアルテミスの宴で給仕を勤めたのだとか――その姿はたとえばアテナイのエレクテイオン神殿(あるいは同地から持ち去られたエルギンマーブル)によって、今なお知られているところのものです。ギリシャアイプロに登場したカリアティードも、おそらくはこの神殿のものであったと思われます。

別の考察を書く中で、素人なりに以上のような断片的情報をかき集めた結果、私の中では葦の原に立つ西洋ファンタジー風衣装の女性=アルテミス(あるいはその巫女)という図式が、成立しつつありました。

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これに加えてもうひとつ、楓さんのソロ曲『こいかぜ』も、私の印象を左右していたといわなければなりません。イントロ部分からして古代の神話世界を表現しているように感じられましたし、合唱団「ひまわりキッズ」が起用されたことなどもアルテミスと結びつけることは難しくないのですが[※3]、中でも顕著なアピールが看て取れるように思われたのは、サビの部分です。

・満ちて欠ける 想いは今/苦しくて溢れ出すの 立ち尽くす風の中で
・満ちては欠ける 想いが今/愛しくて溢れ出すの 舞い踊る風の中で

満ちる/欠ける」という表現は、やはりをイメージしたものでしょう。
また、アルテミスが船出の風を思うままに操ることができる女神であることは、アルゴー船の冒険におけるオルペウスの祈りや、トロイア戦争時のイピゲネイアを中心とした数々の悲劇作品によって察することができます。こういったことは、航海の手助けとなるプレアデス星団や大熊座がアルテミスの従者/巫女とされていたこととも関係しているのかもしれません。

ともあれ私個人としては、『こいかぜ』の歌詞の全体像を、現代女性の予期せぬ恋を描いたものであると同時に、編纂された神話の中では叶わなかったアルテミスの恋を引用して、結末をハッピーエンド改変したものでもあると解釈しています。

しかし、だからといって[新緑の淑女]高垣楓+をアルテミスと呼べるかというと、それはまた別の話なのでした。

たとえば、新田美波・速水奏・藤原肇・水本ゆかりなどのSR/SSRで神話上のモチーフを採用した場合に注ぎ込まれる情報量と比較してみた結果、[新緑の淑女]をアルテミスと呼ぶには、どうしても決定打が不足しているように思われます。[※4]

そんな中、私の目に飛び込んできたのが、ヘレネ生誕の地はカリュアイだという説でした。カリュアイには背の高い美女が多いという定評があったらしく(楓さんもいわずもがな長身の美女ですね)、更には『オデュッセイア』の中から、以下のような描写を拾うことができるでしょう。

妃ヘレネははじめ美貌の娘、その顔は黄金のアプロディテにも類うべき、ヘルミオネを産んだ後は、子宝に恵まれることはなかったのである。
ヘレネが芳香漂う宏壮な居間を出て、黄金の矢持つアルテミスさながらの姿を現した。(いずれも松平千秋・訳)

ヘレネの娘であるヘルミオネが美の女神アプロディテに比された一方で、人妻ヘレネの美しさが(一般的には)処女神であるとされるアルテミスに重ねられ、讃えられたのはなぜでしょうか。それはカリュアイ出身とされる人物と、その地で崇められていた女神の関係を、当時の聴衆に想起させるためだったと思われます。

アイゲウスと、ピッテウスの娘アイトレーとの息子テーセウスは、イクシオーンの息子ペイリトオスとともに、テュンダレオースとレーダの幼い娘(ヘレネー)が、アルテミスの神殿で犠牲をささげているところをさらい、アテーナイへ、さらにアッティカ地方のある村に拉致した。
                ――ヒュギーヌス『ギリシャ神話集』

さて、ヘレネは幼少時にアテナイの英雄テセウスにさらわれ、はたまた長じて後はトロイエの王子パリスにさらわれ、二度も囚われの姫となりました。

しかも、ヘレネは卵から産まれたといわれることがあり、鳥と関わりの深い樹木の女神だったという説まであります。カリュアイは「くるみの樹の里」という意味を持っていますから、これも樹木の女神としてのヘレネ信仰とつながるものでしょうし、あるいは小アジアのアルテミス女神像の胸元で、乳房が鈴なりに実っていることともつながっていたのかもしれません。[※5]

エウロタス河は、このヘレネと関わりの深いカリュアイやスパルタを経て、海に注ぎこみます。つまりカリュアイの葦とスパルタの葦は、同じ河の流れに萌える葦なのでした。


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3,ありのままの『彼女』


……ところで、ヘレネはトロイア戦争のきっかけとなったことから、毀誉褒貶の激しい人物です。ですから、ご自分の担当アイドルが「ヘレネのようだ」と言われると、心穏やかではない方もいらっしゃるかもしれません。

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しかし、私が[神秘の女神]+と[新緑の淑女]+から読み取ったヘレネは、掴みどころもなくただひたすら美しいとされて、その結果ふらふらと災いを招く一般的なヘレネではないようなのです。

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イベント『Pretty Liar』で楓さんが目を留めた美女の絵が、誰を描いたものかなどということは、人それぞれ想像に委ねておくべきことかもしれません。しかし私は、それをルーヴル美術館などに所蔵されている数々のヘレネのいずれかだったのではないかと、つい考えてしまいます。

多くの芸術家たちはたしかに「一瞬の姿」によって、かの美女を永遠に留めようとしました。しかし全ての芸術が「一瞬の姿」だけを切り取ろうとしたわけではありません。ならば、それにとどまらない「本当の彼女」に迫ろうとした作品は、いったいどこにあるのでしょうか。私には多少の心当たりがあります。

私がある瞬間に対して、留まれ、お前はいかにも美しい、といったら、もう君は私を縛りあげてもよい
              ――ゲーテ『ファウスト』相良守峯・訳

これは、ファウスト博士が悪魔メフィストフェレスに魂を売る際の代価を指定した箇所の引用です。楓さんが懸念を表明せざるをえなかった「一瞬の姿」とはつまり、ファウストを堕落させるためにヘレネの美をあてがうメフィストフェレスの手管のようなものとも取れます。

しかしゲーテが実際に描いた場面を見ると、メフィストフェレスはヘレネの姿を魔力でパッとお目にかけることができないし、顕現したヘレネと言葉を交わすにもいちいちギリシアの魔物の姿を借りねばなりませんでした。[※6]
それは第一に「自分の受け持ちはキリスト教普及後の世界であって、異教の美人を顕現させるのは担当外だからちょいと工夫がいる」という事情があったからなのですが、 第二の事情としてヘレネの本当の姿はヘレネとともにあった古代ギリシア人が親しんでいた作品の中にあるという点も、晩年のゲーテの実感としてそこにあったものと思われます。[※7]

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たとえば『オデュッセイア』の中では、ヘレネがトロイの木馬の中に隠れた兵たちの家族の声真似をするくだりが思い出として語られます。これは彼女が悪戯好きであると同時に兵たちひとりひとりの家族まで記憶していることを示しているでしょう。一国の妃として(あるいは自らを崇める土地の者たちを守護してきた女神として)彼女が過ごしてきた日々が背景にあるのです。それをアニメ・シンデレラガールズ中の小さなライブ会場で以前からのファンにこだわった楓さんに通じるとすることも不可能ではありません。はたまた行方不明の父を探し求める青年テレマコスに和やかに応対し、寝酒を勧めるヘレネの姿なども、わりあい親しみやすい部類といえます。

しかし、わけても私が印象的に感じたのは、ステーシコロスやエウリピデスが擁護して、無事ハッピーエンドへと導いたヘレネです。こちらのパターンのヘレネが一般的なヘレネとどう異なるのかというと、まず大きな違いとして、彼女はそもそもトロイエにさらわれていません。

おんみ 漕席うるわしき船にも乗りたまわず
トロイアなるペルガマの砦にいたりたまいしこともなし
                     ――ステーシコロス

「ヘラ・アテナ・アプロディテのうち、もっとも美しいのは誰か」と問われたトロイエ王子パリスは「私を選ぶならギリシアで一番の美女ヘレネを妃にあげよう」と約束されて、アプロディテを選びました。
これがいわゆるパリスの審判で、トロイア戦争が起きた元凶ともいえる出来事だったわけですが、よく考えてみると婚礼の女神ヘラが「ヘレネは私の名のもとにメネラオスと結婚したのだから、勝手なことは許さない」とアプロディテに主張するようなことだって、実はあったかもしれません。

この場合、アプロディテも表立ってパリスとの約束を反故にはできないので、ヘラは折衷案(キラッ☆)としてヘレネにそっくりの雲を作ることになります。ヘラは雷を鳴らす主神ゼウスの妃であるせいか、雲からニンフェ(妖精)を作ることができたのです。[※8]

こうしてパリスはヘレネそっくりの雲を、トロイアに連れ去りました。では10年に及ぶトロイア戦争の間、ヘレネ本人はどこでどうしていたのでしょうか。そこのところを描いたのがエウリピデスの悲劇『ヘレネ』です。

この作品によるとヘレネは、エジプトの老王プロテウスに匿われて、夫メネラオスに操を立てておりました。絶世の美女ゆえ、下手に外出して他の男に惚れられても困るので、余程の用がないかぎりは引きこもっています。思うに[神秘の女神]高垣楓+の姿は、この時期のヘレネをイメージしていたのでしょう。

しかし、この不自由ながらも平穏な日々に、唐突な終わりが訪れます。
ヘレネに良くしてくれていた老王が亡くなって代替わりすると、次のエジプト王が、ヘレネに下心のある視線を投げかけてきたのです。
若い新王からの求婚に悩まされていたヘレネが孤立無援を嘆いて謳うのが、以下のような詩句です。

祖国の誇りであったカストル兄弟も
今は亡く
馬場に蹄を高鳴らせ
葦そよぐエウロタスの岸辺に技を競って
若い力を傾けたあたりにも
もうその姿はみられないのです。

カストル兄弟というのはヘレネの兄弟にあたるカストルとポリュデウケスです。かつて幼かったヘレネがテセウスに誘拐された時には、彼らが助けに現れました。ですがこの劇中の時代においてカストル兄弟は既に世を去っており、夜空に輝く双子座となっていたのです。
加えて「メネラオス王はトロイア戦争の帰途、嵐にあって亡くなられた」という誤報まで入ってきます。

さみだりの葦の葉そよぐエウロタスの流れにかけて誓います
もしも夫が死んだというこの知らせがほんとうなら
——それも考えられぬことではありません——
この頸に死の綱を巻きつけましょう(中村善也・訳)

私がこの詩句を引用することによって強調したいのは、婦人が死しても操を守らんとすることの誉れではありません。
故郷や兄弟・夫に寄せるヘレネの想いが、エウロタス河とそこに群生する葦という光景に集約されているという点なのです。
これこそヘレネの魂が求める原風景であり、彼女がハッピーエンドに辿りつくために必要なものであると察したエウリピデスは、まさしく慧眼でした。

その後なんやかんやあって、死んだと思われていたメネラオスがエジプトに漂着し、ヘレネの前に現れます。夫婦はお互いの智慧と力をあわせてエジプトから逃れるべく、一か八かの賭けに出るのですが…それに加えて最終的にカストル兄弟までもが、例のデウス・エクス・マキナとしてゴンドラ仕掛けで天から降りてきます。
このシーンに古代ギリシアの観衆が喝采を送った理由をP目線で読み解くなら、担当アイドルが『イリュージョニスタ!』のトロッコに乗って現れ、手を振っているようなものでしょうか。まあ、無敵ですね。

ギリシア悲劇の中には、悲劇と呼ばれつつもハッピーエンド改変で評判となった、こういう話もありました。そしてヘレネは、懐かしい故郷へと帰っていくのです。[※9]

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念のために申し添えておきますと、私はなにも「高垣楓その人は、ギリシア神話のヘレネの生まれ変わりである」というような、エキセントリックなことが言いたいわけではありません。

たとえば[シンデレラガール]高垣楓の特訓前は、彼女の故郷である和歌山県・熊野の山中を写したものです。[新緑の淑女]の仕事をしている時も、彼女の脳裏にはあったのはきっと、風にそよぐ熊野川の葦だったことでしょう(それと、他にはまあ……その朝干した洗濯物のこととか……)。

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しかし、ついに帰郷を果たしたヘレネの喜びを、シンデレラガールズのアイドルのうち誰かが表現したことがあるとするなら、それに一番ふさわしいのはやはり高垣楓だったのではないかと、私は思うのです。

私が2年ほど前に着手して寝かせておいた考察の内容は、およそ以上のようなものでした。

しかし最近のシンデレラガールズでは「ある人物について語る上で、むやみに神話を引用することは《お仕着せの幻想》に繋がるのではないか」という問題を、避けて通れない状況になってきているように思われます。

ですから私は、イラストの元ネタやそれを見分けたと言い張る根拠ではなくて、その見解はつまりアイドルのどのような本質、どのような歩み、どのような表現を好ましいと感じたことから生じたものなのかまで、述べられるものならば述べておきたいのです。


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4,『彼女』たちの憧れ


考察の中盤あたりで、私はゲーテの『ファウスト』を引用しました。重ねて申し上げますと、楓さんは「一瞬の姿」による美や快楽を、メフィストフェレスの手管として危ぶむ気質をみせる傾向にあると指摘しています。彼女がモデルからアイドルに転身した理由も、あるいはそこにあるのかもしれないのですが――その同じ理由が、アイドル高垣楓自身の憧れを、本人自身にさえみつかりにくいものにしていました。この問題を扱った会話としては、『命燃やして恋せよ乙女』のイベントコミュにおける、ウサミンとのやりとりを挙げることができるでしょう。

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「私は憧れが持てないからそこに近づく努力もできない。だからありのままの自分でいるんですよ」というだけなら問題はありません。それは「今の段階でできることは、全てできるように」というデレステレッスン時における楓さんの台詞そのものの姿だからです。そしてまた、このような楓さんのありかたは、既に冒頭で引用した[シンデレラガール]の特訓台詞にもつながっていくものと、私は受け取っていました。

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たとえ、夜の闇が広がっていても…私は次の輝きへ羽ばたいていける。

しかし、このような前提に立ってみると、楓さんにとってありのままの自分だけで活動し続けることは、明けない夜の闇の中にいるようなものなのではないか。そういう幾許かのおそれを感じないでもありません。

「次の輝きへ羽ばたいた」はずの彼女が、もしもまだ朝陽を浴びずにいるのだとしたら――それは彼女がまだ自分自身に相応しい場所にいないことを露呈する事態であって、同時に「シンデレラガールズの世界自体が、高垣楓という女神を閉じこめている小さな鳥籠にすぎないのではないか?」という問題を内包しています。そして私が知る限り、楓さんをこのような囚われの姫の立場から解放できるかどうかは、Pにかかっていたはずです。[※10]

イベント『Pretty Liar』のコミュ後半の流れは、楓さんの抱える「憧れに近づく努力なんてできないけれど」という意識に対して、速水奏が反発を示すことによって成立しています。そこにあるのは「たとえ自分自身が到達できないとしても、この世界には綺麗なものがある(=私とあなたがいるこの世界はちっぽけな鳥籠ではない)」という感情の発露であり、また「たとえないものねだりでも、人が望みへと手を伸ばすことを無闇に否定するな」という死にもの狂いの抵抗です。これはファウストがメフィストフェレスと契約を交わすまでの心の動きの再現でもあるかもしれず――少なくとも、ひとりの少女が物語の主人公を自負しなければならなかったその理由であったといえましょう。

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実をいうと、このような事態は『つぼみ』コミュからも導かれる、ある種の必然であったと思われるのです。

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たとえば「人を傷つけない優しい嘘ならいい」という相葉ちゃんの台詞からは、幾分不穏な響きを感じ取れはしないでしょうか。優しく温和な言葉であることも間違いないのですが、かといってそれは「弱い自分を隠すための嘘」が、いつか人を傷つける可能性を否定してはいません。相葉ちゃん自身が、その可能性を否定するような嘘をつけない(その嘘によって楓さんを傷つけてしまうから)程度に、もう成熟してしまっているのです。

また、相葉ちゃんの言葉に潜むその不穏を感じ取ったからこそ、みくはほとんどその場しのぎに近い空回りを演じてしまったのではないかというのが、私の見解です。みくの言葉は、提示された問題に立ち向かい、解決するものではありません。多少きつい言い方をするなら、ファンの笑顔自体は嘘ではなかったのに、後にアイドルが傷つき迷う展開となったアニメ版を乗り越えるものではなかったのです。アニメ第三話の時点で隠された「爆弾」に気付いたPもいれば気付かなかったPもいて、私はまあ気付かなかったのですが――それはともかくとして、ですね。

その時が来たら、楓さんはどのようにして「人を傷つける嘘をついてしまう弱い自分」と対峙するのでしょうか。その時も彼女は、ありのままの自分でいられるでしょうか? 

『Pretty liar』のシナリオはつまり、楓さんが『つぼみ』の時に保留していたこのような問題と、ついに向き合わなくてはならなくなったという物語なのでしょう。

こうして速水奏は楓さんの嘘に傷つき、衝突することになりました。しかし彼女は傷を負ってなお、高垣楓の全てを否定し拒絶することができません。なぜなら、ありのままの自分もみてほしいというのは、彼女自身抱いていた、尽きせぬ望みだったからです。

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ここで、ありのままの自分とフィクションの自分を両立させるにはどうしたらよいのかということが、我々にとっても問題になってきます。メフィストフェレスの手管(=お仕着せの幻想)を退け、ある人物の「一瞬の姿」を理想像にまで高めて世に送り出したいと願うならば、それはどのような条件のもとに可能となるものなのでしょうか。それはどう考えても、PがPであるならば挑むべき難業と言わねばなりません。


ここでいったん話の立脚点を切り替えますが――ファウスト第一部でグレートヘンと死別し、第二部でヘレネとの別離を越えた老年のファウストは、自ら望んで開拓事業を手掛けていくことになります。そしてその生活がいよいよ軌道に乗って寿命も尽きようかという時、彼が自分の魂を悪魔に委ねることも厭わずに述べた台詞は、以下のようなものでした。

自由な土地に自由な民と共に住みたい。そうなったら、瞬間に向かってこう呼びかけてもよかろう、留まれ、お前はいかにも美しいと。

『ファウスト』の構想がグレートヘンのみならずヘレネをも必要とした理由は、まさにこの一文にかかっていたものでしょう。そして楓さんがヘレネを演じた理由も、きっと同じところにあるのではないだろうか――私はそのようなことを考え、『Pretty Liar』のコミュが成立したその理由・必然性についての認識を、もう一度点検し直すことにしました。

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自由な土地に自由な民と暮らせば、どのようなことが起きうるのか。そのケースのひとつとして「今現在のあなた自身が敬意を払えない自分の一面でさえ、他者との関わりの中で将来的には愛せるようになるかもしれないし、実際にそれは捨てたものではない」というようなメッセージ性を、イベント『Pretty liar』のコミュは備えているように思われます。

その物語が実現することは、ある意味で「フィクションの自分」との和解でもあるし、また新しい「本当の自分」が誕生する瞬間に繋がっていくのでしょう。このような展開自体は『Pretty liar』で初めて登場したものではなく、高垣楓ならぬ他のアイドルたちの別のイベント――たとえば『Kawaii make MY day!』においては「ちょいのせ」と表現されていました。

昨日までの自分もちゃんと報われるように輝きたい
                    ――『Kawaii make MY day!』

それはアーニャのソロ曲『Nebura Sky』の歌詞で扱われる生まれ変わりが、「違う自分」という断絶だけではなく「小さな歩幅」という連続性とともに歌われていることとも共通する認識を示しています。

小さな歩幅に合わせ 生まれ変わるよ 違う自分に ――『Nebura Sky』

この種の表現は決してその場限りのものではなく、たとえばSSR[エアリアルメロディア]において、水本ゆかりが自ら多少疎むところのあった「清楚」という個性を受け入れられるようになったと報告していることからしても、一貫した表現であると捉えるよりほかありません。

「自己の連続性を保つことによってアイデンティティが強固になる」というような言い回しをすると味気ないですが、そこには自分自身に対する責任を自分自身も果たそうとする自立心があり、その先に彼女たちの自由があるわけです。たとえばちなったんのこのセリフも、そういう意味を含んでいるように思われます。

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このような「自由な土地と自由な民」を発想の源とする内容が、トライアドプリムスのユニット曲『Trintity Field』の表現にも見受けられることは、本稿の注釈[※5]の内で述べたつもりです。
SSR[Triad Prims]渋谷凛+にも、以下のような台詞があります。

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また、『未完成の歴史』のコミュにおける肇ちゃんも、自身の過去から現在に至る道を、以下のような言葉で振り返っていますね。

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同じ発想から出発した表現が、各人それぞれで全く異なる作風の曲に仕上がるのは、作詞作曲編曲を手掛けた方の個性であると同時に、実際にそれを歌うアイドルたち各々の個性であるともいえるでしょう。そうでなければ「ちぐはぐな出来」あるいは「二番煎じ」と評されるまでです。

それで、ミステリアスアイズの個性はどのような機会において明瞭に立ち現れるのか考えてみると――たとえば以下に並べたふたつの台詞は、それぞれが自分のことを語ると同時に、相手のことを語っているようにも感じられはしないでしょうか。

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ふたりはそれぞれ、自分の思うところをそのまま述べたにすぎません。なぜって、どちらも自由な存在なのですから。にもかかわらず、これらの述懐が自分とパートナーのいずれにもあてはまるのだとしたら、そこから導き出される事実は、たった一つしかないと思われます。

つまりPは、速水奏と高垣楓がついにお互いを自由な存在であると認め合った瞬間を切り取って、「いかにも美しい」と讃えたのでした。

このような関係は、モバゲー版のミステリアスアイズでも成立していたものです。自分の意気込みをきちんと述べることが、ひそかにお互いを呼び合うことにもなっている(「奏」と「高(垣楓)」)あたりが、まさしくこのユニットらしいところだったのではないかと――私もようやく、そのようなことに考えが及ぶようになりました。

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記憶に新しくしかも特徴的ということで、ここではミステリアスアイズについて多くを述べましたが、このような「一瞬の裡に焼き付けられた永遠」は楓さんが『Nation Blue』から受けた影響を伺わせるようでもあります。

あの日見た景色が 光るBlue Topazのように 今も輝いて 僕ら照らしてる

つまり楓さんの表現は人との関わりの中でアップデートされ続けているのです。大失敗もなく天性のものだけでスッと歩いてきたように見えても、それは「今の段階でできることは全てできるように」してきたからであって、見方を変えるならひとつの仕事、ひとつの共演が欠ければ次が成り立たないような綱渡りの連続だったともとれます。それは彼女が自身に対して果たしてきた責任であると同時に、彼女にとってPが交換不可能な――かけがえのない存在であることの現れのひとつ(全てではないでしょう)です。

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ゆえに、[シンデレラガール]高垣楓もまた、そのような「自由を認め合えた瞬間」を切り抜いたものであって、こちらは楓さんがPとふたりで自由な未来に歩み出す瞬間を捉えたものに違いありません。その姿は、これからも恒常ガチャの登場アイドルリストの中にあって、輝き続けるでしょう。

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最後にひとつ、個人的な話を。思えば、私が最初に楓さんを意識したのは、スーパー銭湯のサウナでのことでした。サウナにはテレビも設置されていて、私はそこで初めてシンデレラガールズのCMを見た、というだけのことなのですが――

「うー、選んで!」と「あんたがプロデューサー?」には、なんとか耐えたんです。周りは知らない人ばかりだし、タオルを頭にかけて下を向いていれば、たった15秒間ポーカーフェイスをもたせるぐらいはできるだろう……という感じでしょうか。しかし当時の私は、それが15秒CM2連である可能性を想定していなかったのです。……果たして数秒後、頭上から降り注ぐ「このステッキ、とても素敵」の一言に不意を打たれた私は、咳払いともなんともつかない「エフッ」という変な声を発してしまうのでした。

いかにも個人的な、めちゃくちゃどうでもいい話ですね。しかし私自身が、偶然楓さんに遭遇して「この人、自由すぎる…」と感じたその一瞬の記憶を今なお残しているのは、なかなか愉快なことのような気がします。そして今も変わらず、彼女が自由な人であることを、私は嬉しく思うのです。そして改めまして――新ソロ曲『Blessing』発表、おめでとうございます!


以上が、私が楓Pではない(ファンだと思っています)なりに「楓さん」をめぐって考察してきた内容になります。なお未整理でお見苦しいところが多かったかもしれません。それでも根気よく目を通してくださった方に、お礼を申し上げたいと思います。ご読了ありがとうございました!(了)


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[※1]アトラス自身の「天と地を支える巨人」のイメージは、もともとアルカディア地方の住民が故郷の山々を讃える意図から始まったようなのですが、後にギリシア人が地中海に出て植民市を築き、イタリア・エジプト・北アフリカ・シリア・小アジアなどもひとつながりの世界として認識できるようになった結果でしょうか、現在我々はテュニジアの山脈を「アトラス山脈」と呼ぶようになりました(ペルセウスがその地で彼にメデューサの首をつきつけて石化させたのだ、というような伝説がおまけにつくようです)。

このような根拠地の点在と変遷はアルテミスにもあったらしく、この女神の場合はラコニア地方のターユゲテー山脈であるとか、クレテ島のディクテー山などと結びついていました。いずれの山の女神もアルテミスの従者・あるいは分身であるとされており、とりわけターユゲテーはプレイアデスのひとりとして、アルテミスに仕えることになります。

さて、プレイアデス七姉妹はアトラスの娘であるとされ、そのうちのひとりに数えられるターユゲテーは、ゼウスと契ってラコニア地方の伝説的な王・ラケダイモンを産んだと伝えられています。都市スパルタの名はラケダイモンの妃・スパルテーにちなむそうですが、スパルテーの父の名がエウロタスであることは、この地方の人々の暮らしが何によって成立したかを誇らしさとともに物語るものでしょう。


[※2]話が逸れそうなので異説についてこちらで捕捉しておきますと、愛人の死を嘆いたディオニュソス神が、彼女の姿をくるみ(=カリュオン)の樹に彫りつけたのがカリアティードのはじまりだ――という話もあります。ディオニュソスに愛されたこの女性は、王女とも妖精とも言われ、その名はカリュアであるとされています。

この樹を現代の品種名でいうペルシアグルミに近いものと考えると、育てば10~20mぐらいに達し、1年で50kgほどの実が収穫できるそうです。これが古代人にとって重要な栄養源・保存食となったであろうことは想像するに難くありません。豊穣を願う祭儀の中心に据えられるほどに育ったくるみの樹は、古代ギリシアにおける大神殿の神像(およそ40フィートといわれるオリュンポスのゼウス像、パルテノンのアテナ女神像、エフェソスのアルテミス女神像など)とほぼ同じ高さであるということさえ、なにやら意味深長な一致のようにみえてきます。

とはいえ、カリアティードに関するこの種の説明は、ディオニュソス信仰が根付いた時期(紀元前10世紀~紀元前8世紀ごろ?)から考えても、幾分新しい世代のお話のように思われます。大樹、あるいはその芯をくりぬいたものに彫刻を施して女人像として崇める(そして後に水浴させたり火にくべたりする)儀式にはギリシアのみならず多くの例がありますが、これが事実だとしたところで、ラコニアに伝わるくるみの木の女人像がアテナイで大理石柱となって神殿を支えるようになるまでには、その背後になんらかの事件(たとえば、テセウスによるヘレネ誘拐を連想させるような)がなくてはならなかっただろう――というのが偽らざる感想です。

そういった事情からこのお話は、牧神パンとシランクスの物語と同じく、オリュンポスの神々にアルテミスやディオニュソスを組み入れる過程で、元の話が変形してしまったものである可能性が高いと思われます。

端的に私見を述べるなら、女神カリュアを包摂した大女神アルテミスの神号のひとつがアルテミス・カリュアティスであり、そういった山野の豊穣神が、後から妖精や処女神であることにされた経緯をうかがわせるものと取れなくもありません。その際、カリュアと対になっていた男性の植物神の名はディオニュソスの名で上書きされたものかもしれません。

同じような現象は、植物の繁茂を司る存在としてのアポロンが、ヒュアキントスの儀式を吸収する際にも起きていたそうです。この場合、ヒュアキントスと対になった女神の位置に男神であるアポロンが収まって、恋人同士であるとされたことになるようですが――とにかく、樹木の女神カリュアとその夫(あるいは父、息子?)のような関係性は、上書きされた一方ですっかり忘れ去られるわけでもなく、ヘレネのような後継者的存在によって、西洋人の精神生活の上に長くその木陰を提供していたと言えそうです。その顕著な例としては、ゲーテの『ファウスト』やグリム童話の『灰かぶり(KHM21。その中に登場する魔法使いは灰かぶり自身で、彼女はハシバミの樹や鳩を介した魔法を用いてドレスと靴を出現させます)』、そしてワーグナーの歌劇『ニーベルングの指環』などを挙げることができるでしょう。


[※3]女神アルテミスの神格のうちには「小児の養育者(パイドトロポス)」と呼ばれるものがありました。具体的にいうと、スパルタの少年少女たちは成人するまでアルテミスの庇護下に置かれ、成人式もまたアルテミスと関連して行われていたのだそうです。アルテミスは「山野と都市」の境界だけでなく「子供と大人」の境界をも司っていた、といえるでしょうか。

このようなしきたりを背景として少年少女たちが集まって過ごすうちに「歌とダンスで楽しみながら集団生活のなんたるかを学ぶ」という方法が定着することは、ほとんど当然の成り行きであったといってよいでしょう。

こうしてスパルタは古代ギリシアにおける合唱抒情詩の発祥地と呼ばれることになります。このジャンルの中でも特に女神アルテミスを讃えた一群のものは、乙女歌(パルテネイオン)と呼ばれ、親しまれていたのでした。


[※4]たとえば、[天光の乙女]速水奏+は彼女を「現代を闊歩するアルテミス」として描いたものと思われます。アルテミスの従者とされたプレイアデスには「狩人オリオンに追い回され、彼から逃れるため白鳩に姿を変えた」というエピソードがあり、これが[天光の乙女]+では八羽の鳩で再現されているようです。「七姉妹なら一羽多いのでは?」とも思いましたが「オリオンから求愛されて逃げ回っていたのはプレイアデスの母親(=アトラスの妻・プレイオネ)で、娘たちはその巻き添えであった」というような話もあるので、別に八羽でもおかしくはなさそうです。加えて「酒神ディオニュソスに酒を無理強いされていた妖精を、アメジストに変えて自分の身に着け、宴会場から逃がしてやった」という話もまた、その衣装に反映されている可能性があります。

両者を併せて「迷惑な男を粋に退散させる少女たちの憧れ」という表現意図があることはほぼ疑いのないところでしょうし、それはデレステのコミュで描かれたPと奏の出会いと再び接続するものでもあったようです。

このような表現も『Pretty liar』の中で語られた「私は、私が望んだ嘘をつくの」という言葉の例外ではないとすれば、ありのままの自分にこだわって虚像を退けようとすることに対する彼女の反発は、そう唐突でもありません。それに加えてもう一種類、別のベクトルの反発があったことについては、考察の終盤で触れます。


[※5]もともとメネラオス王は、白鳥処女説話にみられるような「白鳥乙女を妻にする男」だったのではないかと思われます。その根拠としてはあざらし(これも白鳥乙女の種類のひとつに数えられています)の群れの中にいる海の翁プロテウスと格闘して自分の身の処し方を訊ねることや、ヘレネの夫であるという真にそれのみの理由から死後はゼウスの娘婿としてエリュシオンに召されることなどが挙げられるでしょう。

この説が正しいとすると、メネラオスの妃であるヘレネも元来は白鳥乙女(=天女、女神)であったと考えるよりほかにないわけです。実際、スパルタには樹木の女神としてのヘレネ(神号はヘレネー・デンドリーテス)を祀った神殿がありました。ほかにはエジプトのメンピスにも、その地に居留していたイオニア人傭兵たちがヘレネの神殿と認識するものが存在していたという記述がヘロドトスの『歴史』の中にあり、エウリピデスもこの話を前提に、悲劇『ヘレネ』の舞台をエジプトに置いたとされています。

この白鳥乙女/囚われの姫というイメージと関わりのあるアイドルは、楓さんひとりだけではありません。たとえば神崎蘭子(ブリュンヒルデ/Rosenburg=茨の城)や新田美波(レディアントヴィーナスおよびヴィーナスシンドローム/ガラスの檻)はもちろんそれにあたりますし、ほかにも綾瀬穂乃香はバレエ『白鳥の湖』を、水本ゆかりは[素顔のお嬢様]+で扮したイピゲネイアの登場する作品群を介して、それに該当しています。神話から民話・昔話に目を転じて織姫、乙姫、かぐや姫、人魚姫、眠り姫、シンデレラ――などと並べていくと、全ての登場アイドルたちがなんらかの形でこの種の表現に挑んできたといえるのかもしれません。

このイメージは第一に、乙女を捕えるためにせよ解放するためにせよ乗り越えなければならない試練とその褒賞(ルーンの知識、運命の予言、動物との会話、武芸の伝授、反物によってもたらされる財力や乙女の美など)を伴います。
ちなみに試練と褒賞はコインの裏表のような関係にあって、物語の中では「羽衣」と「檻」によって交換可能な形で具体化されるようです。
現代になると「羽衣を盗んで乙女を檻に捕える」狩人のお話と「乙女を檻から解放して羽衣を授かる」騎士のお話とで受ける印象はかなり違いますが、しかしそれらは元来同じシステムを採用して生み出された物語のバリエーションとして把握することができる――という感じでしょうか。

『Pretty Liar』の歌詞にある「プライドというワンピ」はこのふたつが等号でつながった羽衣であり檻であるものとみなすことができるでしょう。美であるとか嘘をつくことに関する能力というのも、これにくっついてきますね。

また第二に、ゆかりや三船さんは、タロット占いになぞらえるなら逆位置を向いた白鳥乙女のような役を演じたことがあります。すなわちフェアヘイレンさんや[語らいの明眸]三船美優+がそれで、今回の考察で扱った楓さんの問題点とはネガポジの関係にあるようです。実をいうと彼女たちの表現の大枠は「自分が見守ってきた人々(=エインヘリアル)の魂を回収する/回収した魂を次の世界(=ヴァルハラ)に連れて行く」というヴァルキュリアの属性に接近しています。

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白鳥乙女の逆位置といっても、それが必ずしも禍々しい印象に終わらないことは、織姫やヴァルキュリアに扮した鷺沢文香が奇しくも『大きな古時計』をカバーしたことや、新田美波の第二ソロ曲『Voyage』によっても示されているように思われます。加えてモバゲー版では、お絵描き勇者公演や玩具公演など文章量の多い公演系イベントが、このような異界渡りを題材にして、それぞれ独自の世界観を保っていました。
これらの表現はつまるところ、さまざまなアイドルが(Pはもちろんとしてそれ以外の)ファンやスタッフの想いも背負った上でステージに上がることと関連しているのでしょう。

そして第三に、白鳥乙女を掴まえたり解放したりする側の役どころを演じるアイドルたちもいるようで、こちらは本田未央の『ミツボシ☆☆★(プレイアデスを狙うオリオン)』や一ノ瀬志希の『秘密のトワレ(クピドを魅了しようとするプシュケ)』、スシローでレナさんが茄子さんたちと戦って勝利した三本勝負、デレぽのクリスマス記事でイヴ(=白鳥乙女)の正体をつきとめようとして起きた探偵団の大騒ぎなどが、それにあたるものと思われます。

これら3つのカテゴリは、アイドルそれぞれの個性が今そのようにある理由や、自縄自縛からどの程度脱しつつあるか(ひとつの役割に縛られていないか)といったことを、ある程度まで説明してくれるもののようです。
中でも特筆すべき逸材は仙崎さん(SSR登場ならびにスパロボコラボ出演、おめでとうございます!)で、彼女はアリス公演において、赤の女王・チェシャ猫・トランプ兵という三役を演じることによって、3つのカテゴリを1つのイベントで完全制覇するはなれわざをやってのけています。

楓さんもまた、新たなSSRで囚われの姫=ヘレネ以外の新たな役割への挑戦を始めています。それは具体的にいうと「恐れを知ることで愛を知る」お話と「滅ぼされたはずの愛が炎によって永遠になる」お話を組み合わせることで誕生した英雄像――『ニーベルングの指環』におけるジークフリートに接続しているものと、私は考えています。
ジークフリートの立ち位置は作品によっていろいろですが、この作品におけるジークフリートは戦乙女ブリュンヒルデと対になっていますから、この註の中で挙げたカテゴリのうち、第三のものに該当しているといってよいでしょう。

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『Pretty liar』のお仕事を通じて成長した楓さんは、以前の自分について「失望される覚悟さえ、できていなかった」と振り返っています。恐れを知らなかった者がそれを知り克服することで、自分はなにに憧れているのかを思い出し、情熱を燃やすようになるわけです。
炎の中から再生するこのような姿を不死鳥になぞらえたものが、SSR[悠久の羽根]高垣楓+なのではないかというのが、私の見解です。あえて補足するなら「霧を恐れる必要はない」というセリフが、ニーベルング(=霧の子ら)につながると考えられなくもありません。


[※6]ゲーテの工夫によってヘレネを顕現させるために用いられたのが、「母たち」の呪法でした。

「母たち」というのがいったいどういう概念を意図されたものなのかというと、エッカーマンの『ゲーテとの対話』によれば、プルタルコスの以下のような記述に基づいていたようです。

世界の数は183あり、それらの世界は三角形に配備されている。(中略)
三角形の内部は各世界に共通の炉であって、これは真理の野と名付けられる。この真理の野には、かつて存在したもの、および将来育成するであろうところの一切の事物の根元、形態、元型が不動のまま横たわっている。  ――プルタルコス『神託の衰微について』

直接的にゲーテに影響を与えたわけではありませんが、プラトンの著作にも、以下のような記述がありました。

しかしなんのために《真理の野》のある領域を見ようとして、このような懸命の努力が費やされるのであろうか。それは、ほかでもない、その牧場からは、魂の最もすぐれた部分が本来糧とすべき牧草がとれるからであり、そして、魂を軽快にする翼の原質は、この牧草によって養われるからである。――プラトン『パイドロス』

実をいうとCygamesの作品では、この「真理の野」をモチーフにして描かれた設定やストーリーがたびたび見受けられるようです。たとえばグラブルのメインシナリオ第二部に登場した「母」を司る星晶獣エキドナの誕生秘話は、その明白かつ具体的な一例といってよいでしょう。

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トライアドプリムスのユニット曲『Trinity Field』も、実はこのような例のひとつかもしれず、こちらは彼女たちにとってのステージを「真理の野」になぞらえたものと考えられます。
彼女たちはステージで得たものによって自由を手にしたいと願っているのですが、しかし凛ちゃんはこの「自由」を必ずしも「翼」に喩えようとはしません。それはSSR[Triad Prims]渋谷凛における「翼なんてなくても」という言い回しや、ソロ曲の「あの場所へ走り出そう(Never say never)」「どこまでもどこまでも走り続けるから(AnemoneStar)」といった歌詞からも察せられるところで、私が今後渋谷凛らしさを追いかける時は、改めてこのあたりに注目してみたいと思っています。

もうひとつ捕捉しておくと、ステージはTPだけのものとして歌われているのではなく「シンデレラガールズのアイドル達183人(当時)の全てが真理の野に接しているが、自分たちはその頂点として最高のものを見せねばならない」という自負が籠められているようです。その根拠となりうる台詞も、私自身の感覚では作中にみつけることができました。

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新たに7人のアイドルが追加されたシンデレラガールズの世界には今や183+7人のアイドルたちがいます。これは「既出アイドル183人+新アイドル7人」と読むこともできますが、同時に7人のシンデレラガール+次代の候補者183人と読み替えられる時期があったことは、注記しておいていいかもしれません。

いわばPとアイドルたちは螺旋階段をぐるっと一周のぼって、かつて見た景色をより見晴らしの効く高みから眺めていることになるでしょうか。


[※7]若き日のゲーテは10年かけて『タウリス島のイフィゲーニエ(1787)』を書きました。彼はエウリピデスの悲劇に登場するイピゲネイアよりも、ずっと倫理的でより美しい「彼女の本当の姿」を描こうとしたわけです。対して晩年のゲーテが『ファウスト・第二部(1831)』の中で、どのようにしてヘレネという存在に向き合ったか――このような取り組み方の違いはまず、第一部のファウストと第二部のファウストの心境の違いに現れているでしょう。また、『Pretty Liar』におけるミステリアスアイズそれぞれの心境とも、ある程度までは重なるものではないだろうか、というのが私の見解です。

それから、余談になりますが、ツアーinドイツで登場した二人の台詞には、以下のようなものがあったそうです。

楓「ドイツ…。なにかの声が、私たちを呼んだ気がして…。」
奏「そう多分、呼んだのは…ビールとソーセージね」

「ドイツと何奴(どいつ)をかけたダジャレがさらっと流された」という態になってはいるものの、その裏には「ゲーテやワーグナーに呼びかけられて、彼らの表現の先に挑む運命のアイドル」という伏線が隠されていたのかもしれません。……いや、どうなんでしょう。これってやっぱり、考えすぎでしょうか?


[※8]これが脈絡もない苦し紛れの創作かと思えば案外そうでもなく、ヘラが雲からニンフェを作ったとされる例も他にもいくつかありました。たとえばケンタウロス族の母といわれるニンフェや、金毛羊皮のお話に出てくる王妃なども、こうした雲のニンフェ(=ネペレー)だったと言われています。

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とりわけこの金毛羊皮の伝説は、[ホワイトテイル]遊佐こずえ+に影響を与えたものと思われ、こずえちゃんはこの伝説に登場するアタマースのふたりの妃(=イーノーとネペレー)を、お人形遊びのようにひとりで演じ分けているようです。例を挙げるとネペレーとしての側面を強調したのがユニット・ハーモニッククラウドで、イーノーとしての側面を強調したのが人魚公演のお仕事ということになりそうです。それらの表現の行き着く先のひとつとしては『Sun! High! Gold!』コミュで未央を励ます一幕を挙げることができるのではないでしょうか。

イーノーは甥にあたるディオニュソス神を養育したことで女神ヘラから憎まれ、ヘラクレス同様の狂気に陥ったことになっています。その結果、自分の子らはもちろん、夫のアタマースとネペレーの子らも巻き込んで破滅しました。このあたりの話をアカイア人の南下と関係づけて、ひとつの土地における新旧宗教交代のせめぎあいを見る説もあるのですが、こずえちゃんの場合は己が聖性と魔性を人形遊びの中で同時に満足させていると見た方がよいのでしょう。とはいえ、その遊戯は壮大であっても異常なものではなく、たとえば常識人寄りのアヤさんと楽しく繰り広げられることもあったりします。つまり私からすると「誰もがその地点を通過して心を育む」という言及が、作中で為されているように感じられるわけです。

ところで、生前はヘラに憎まれたイーノーも、死後は「神を育てた」という功績を認められ、女神として天界に上げられました。彼女の女神としての名はレウコテア(=白い女神)であり、その息子とともに難破した者たちを救う航海の守護者(=うみのかみさま)として重んじられました。レウコテアは日本ではあまり有名ではなさそうですが、『オデュッセイア』に登場してオデュッセウスを救っていますし、古代オリンピックと並ぶ四大競技大会のひとつ・イストミア大祭は、彼女とその息子に捧げられたものです。

このSR[ホワイトテイル]+は、ただ神話を形だけなぞっただけのものではないようです。たとえばレウコテアに扮したこずえちゃんが「まってる」のが、金毛羊の背中から海に落っこちたヘレ(アタマースとネペレーの娘で、ヘレスポントス海峡の由来)なのだとしたら、その表現の向こうに神話上の悲劇でさえハッピーエンド改変する意志をみることができるかもしれません。

以上のような、神話における迫害される側(聖)と迫害する側(魔)を、アイドルが一人二役で演じて和解にこぎつける例はシンデレラガールズの中に複数あって、どうやらシンデレラの零落と復活を仄めかしているようです。こずえちゃん以外にも、水本ゆかり(イピゲネイアとアルテミス)や北条加蓮(テイルズコラボ)、神谷奈緒などがこれを経験したことがあります。

どうやらTPから離れた奈緒は「旧世界から放逐され、地の果てで新世界の誕生を目撃する者」というテーマを一貫して扱っているらしく、その例として『Neo beautiful pain』、蒸機公演、ハロウィンSSR[魔性の夜会]などの彼女は大地母神レトやイオの立場にあり、また『2nd side』やウェディングアイチャレでは婚礼の女神にして天界の女王・ヘラの立場にあったのでした。


[※9]古典であるギリシア悲劇でさえもが、時には本来の伝承をハッピーエンド改変してあっけらかんとしていた(観衆の側でもそれをよしとした)というこの事実が、私の『こいかぜ』解釈に影響を与えています。もしもギリシア・ローマの全盛期がもう少し長く続いていたならば、オリオンの死で終わるアルテミスの恋のお話も、誰か詩人の手によってハッピーエンドを迎えていたのかもしれません。

実際、「アルテミスの従者として非業の死を遂げたヒッポリュトスは、名医アスクレピオス(アポロンの子)によって蘇生された後、ゼウスの怒りを受けぬようイタリアのネミ湖に隠され、ウィルビウス神としてディアナ(=アルテミス)に随っている」という話があります。


[※10]このようにゲーム内の現実を「箱庭あるいは牢獄」と捉えるメタ解釈の中には、ほとんど我田引水ともいえる批評側の見解やあてこすりが含まれることもあってあまり参考にできない――という経験則をお持ちの方もいらっしゃることと思います。にもかかわらず、私があえてそのような危険を冒してこの解釈に踏み込んだ理由は[新緑の淑女]+にありました。具体的には以下の台詞に基づいています。

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初見では「ダジャレだ…(しかも上機嫌の)」という感じでしたけれども、今になって思えばこれは[新緑の淑女]登場後に開催されたグラブルのシナリオ『どうして空は蒼いのか』を連想させるものかもしれません。

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「グラブルはやってないよ」という方向けに大雑把に説明しますと、それは《空の世界》という創造神の箱庭を管理していた天使長ルシフェルが、数千年にわたってそこに生きる人間たちから受け取ってきた《問いであり、願いでもある》ような言葉です。

しかし、人間が空の青さにかけてきた「問いであり願いでもあるもの」とは具体的に何を指すのでしょうか。そのあたりの消息をある程度わかりやすく噛み砕いてくれる作中キャラクターとしては、アオイドス(彼の名前はダジャレでもありますが、古代ギリシアの吟遊詩人を意味する名詞でもあります)がいます。彼は実際に、その問いと願いを抱えている人物の一人のようなのです。

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(スクショを取ったシーン自体は『失楽園』の第5話エピソード3と、SSRバアルのフェイトエピソードです。よろしければご確認ください)

キーワードとしては「欠落(戻らない記憶や逃れられない運命、辿りつけない景色など)」がまずあって、次にその欠落を埋めることへの憧れがあります。ところでその欠落は、上からあれこれ指示された通りにすれば必ず埋まるというようなものではありません。むしろ努力する方法さえわからず、決して埋まらないことだってあるわけです。たとえば、二宮飛鳥のこの誕生日台詞ですが――

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我々には封印された記憶とかそういうものは特にないはずですが、「生まれ落ちた日の記憶を失くしてしまった」という点ではほとんどの人が彼女と同じなわけで、常識的にはその記憶はまず戻らないと考えていいでしょう。

こういった状況で、人間にはふたつの道があるように思われます。
ひとつは欠落を埋められない自分を受容して目を他に転じること。もうひとつは、それでも憧れつづけて歩みを止めないことです。

たとえば二宮飛鳥はPと出会い、前者を選んでこの「欠落を抱える自分」と和解した(あるいはそれを逆手に取る術を身に着けつつある)人物なのでしょう。それは『未完成の歴史』における彼女の表現と繋がっていますし、『バベル』でもまた「(ギフテッドと比べて)欠落を抱えた自分」と向き合うことになっています。

一方で速水奏の『あいくるしい』における「愛を失った少女」という役柄や『Pretty liar』における「綺麗なものに憧れたの。私自身は、そうなれないとわかってしまっても。それでも、どうしようもなく憧れて、やめられないのよ」という台詞は、二択のうち前者を選べずに後者を取ったことを匂わせています。

これら二者が、それぞれの立場から同じ空を眺めて「どうして空は青いのか」という共通する問いを発し、また、願いを抱くようです。

ただ、このような解釈には「グラブルの話を無理やり持ちこんでいるだけではないのか」「青と蒼を同じ意味で読んでいいのか」という疑問がどうしても伴うので、もう一度シンデレラガールズ側の表現と照らし合わせておく必要があるでしょう。この場で逐一照らし合わせることまではしませんが、それに最適な実例は総選挙曲『君への詩』に違いない――というのが、現時点における私の判断です。

それでもね 空の青さから目を離せなくて       ――『君への詩』

思うに、「憧れのアイドル像がない(=自覚できる欠落がない)」と述べていた楓さんは、ルシフェルに近い立場からこういった幼年期の終わり(=巣立ち)を意識してきた人物なのではないでしょうか。SF小説『幼年期の終り』における人類は地球外の知的生命体とコンタクトすることによって幼年期を終えるわけですが、楓さんの場合はPや同僚アイドルたちとの交流によってこれが果たされたものと、私は受け取っています。楓さん自身は、それを「青春」の二文字に要約しました。

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