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《黄色い犬》の冒険


私たちは たくさんの真実に似た虚偽を話すことができます
けれども 私たちは その気になれば 真実を宣べることもできるのです
                ――ヘシオドス『神統記』


 ある日、水本ゆかりが目を覚ますと、そこは事務所――ではなく古代ギリシアの神殿でした。
 より正確にお伝えするなら、アテナとアルテミスの宴が開かれた翌日の、エレクテイオン神殿です。女像柱(カリアティード)の支える玄関口から少し入ったところに設えられた簡易寝台で、水本ゆかりは目をぱちくりとさせておりました。かつてメネラオス王の宮殿を訪ねたテレマコスもまた、これに類する親切を受けたのだとか。彼女は賓客の立場のようです。

「あ、あら……? ここはいったい……」
「おはよう、私の巫女。ご機嫌はいかが?」

 その神々しい顔だちをしっかり描写することは畏れ多くてできませんが、とにかくその方は女神アルテミスでした。
 膝丈のチュニックも軽やかに、右肩から垂れる旅向きの半外套は、アグライの信奉者たちから奉納された逸品です。そしてその美しい額には、いずれ英雄テセウスの子・ヒッポリュトスから捧げられることになる、哀しい曰くつきの花冠を戴いておられます。

「まあ、お綺麗な方ですね! もしかして私、まだ夢を見ているのでは?」
「これは夢ではありませんよ、イピゲネイア。どさくさに紛れてKawaiiことを言っていないで、さあ、早く起きるのです」
「夢と現実を見分けるには、いろんなものに触って、感覚がきちんとあるか確かめるのがよいのだとか。……あの、触れてみてもいいですか?」
「許可を出す前から、ぺたぺた触りはじめているのは、一体なんなのでしょう……仕方のない子です」

 こうして、ふたりがとりとめのない時を過ごしているうちに、やがてこの神殿の主たる女神、ゼウスの姫御子・アテナがお出ましになるのでした。
 こちらの女神はパンアテナイア祭で捧げられた輝く長衣を着流していらっしゃいます。もうひとつ付け加えるなら、この時アテナは、武装こそ解除しているとはいえ、足元に二匹の蛇を伴っておられたのです。

「アルテミス、酔いは醒めましたか? 『ポセイドンはもう発った』と報せがありましたから、そろそろ我々も出発の時間ですよ。巫女と戯れてばかりいないで、さあ参りましょう」

 ポセイドンはかつて都市アテナイの守護神の地位をめぐって、他でもない女神アテナと競いあったことがありました。
 その縁からか、時折スニオン岬を訪れてはアテナの蛇と戯れていくような、意外と粋なところもある神様です。昨夜も「女神ふたりの宴を邪魔しては」ということで、早々に神殿を辞して、奥方アンピトリテのたゆたう海原へお戻りになりました。
 さて、女神の美しさにようやく目が慣れてきた少女ゆかりも、このアテナに随う蛇を見ては、さすがに驚いてしまいます。

「きゃっ、蛇?」
「おや、もう慣れた間柄かと思いましたが……さ、蛇たちよ、朝の挨拶をなさい。そして私が留守にしている間、エリクトニオスを頼みますよ」

 二匹の蛇はシュルシュルと舌を蠢かしました。
 おそらく「イエス、マム!」という意味の身振り手振り――もとい、舌振りなのでしょう。
 もともとトリトゲネイアとも呼ばれていた女神アテナは、トリトン川の流れる様子から蛇と関わりを持ったのでしょうが、それも古い話です。
 この二匹の蛇たちは、母子や産婆から見たへその緒を象徴することもあるらしく……乳幼児の守り手として現れたり、逆に刺客として現れもする(今昔を問わず、へその緒が胎児の手足や首に偶然巻き付いてしまったことが原因で、お産が危険なものになることがあります)あたりは、その間の事情を説明するお話のように思われます。

「怖がる必要はありません。これらは私たちのしもべのようなものです」と女神アルテミス。蛇たちに手づから、はちみつ菓子のかけらをお与えになります。
「はぁ、そうなのですか……私はまたてっきり」
「てっきり?」
「寝ている間に、耳からにゅるんと入ってしまうのではないかと、つい想像してしまって」
「それはまた……本来ならとりとめないはずの不安が、一気にイヤな感じの具体性を帯びましたね……」

 寝耳に水という慣用句が既にあるせいでしょうか、寝耳に蛇というのはあまり(というか全く)ポピュラーなパニック状況ではないようです。
 それでもアテナは目の前にいるゆかり=イピゲネイアと向き合い、その心を安らげるべく、自身の体験談を語るのでした。

「ともあれ、蒙昧からくる恐怖を打ち砕くのは、智慧の女神でもあるこの私の使命と言わねばなりません。
 いいでしょう、よくお聴きなさい、イピゲネイア。人体の構造はそんな風にはなっていないのです。私自身、ここに来る前は父上・ゼウスの頭の中で暮らしていたことがあるので、隅から隅までよく知っています。それはもう解剖学的な精確さでです。
 たとえば耳と耳の間の壁を、戯れにブチ抜こうとしたら、『さすがに死ぬかもしれんからやめろ』と叱られたものですよ。まあ、外の世界に来てからの私は、多くの敵の頭をそのように、輝く槍で貫いてきたわけなのですが」

 アテナに頭蓋を貫かれた侵略者たちの亡骸はいつも、故郷から遠く離れた大地の上に、黒く長い蛇のような流血の筋を伸ばしたものです。
 味方としては心強いながら、その光景に怯えを抱いた者は、蛇の髪をした魔眼の怪物を心の裡に思い描きました。
 この怪物をアテナと呼ぶことは憚られたのか、人々はこれをデメテルと同一視されることもあった大地母神メデューサ(いずれも古い時代にはポセイドンの妻であったと目されています)の名に差し替えて、その威力を畏れるのでした。

「寝起きの巫女を脅かさないでください、アテナ姉様。とはいえ、お寝坊さんは、怯えるほど意識が戻っていないようだけれど」
「ふぁ……(あくびするゆかり)」
「(まだ続けるアテナ)ですから、蛇に耳管をくぐらせることは、刺繍を大得意とする私にとってでさえ、なかなかの難題なのです。もしも人間がこのようなことを試みたくなったら、鼻からにゅるんとうどんを出す程度で我慢することですね」
「えっ、おうどんを…? 女神様も、それをやったことがあるのですか?」
「もちろん試したことはありません、そんなこと。……というか、我が歯垣から漏れた言の葉ながら、『うどん』とはいったい……?」

 このような語彙の混乱は、現代日本のアイドルであるところの水本ゆかりが、ギリシア神話の世界に紛れこんだことで生じたものといえましょう。
 すなわち、水本ゆかりがなんとなく女神さまがたの存在を受け入れ、イピゲネイアの名で呼ばれることを了承してしまったように、女神さまがたもまた現代日本についての知見を、断片的にではありますが思いなしとしてご入手なさったのです。

「おうどんですか。あっ、それなら私、お教えできますよ。とても暖かくて、優しいお味のする、白くて長い……」
「白くて長い……何ですか?」
「なんでしょうね?」

 もしもその場に我々が居合わせたなら、「小麦粉」と書いたカンペを用意して、彼女を強力にサポートしたことでしょう。実際は居合わせないので、どうにもサポートできないのですが……(痛恨の凡ミス)。

「白くて長いのだから、やはり蛇なのでは?」とアテナ。
「蛇じゃないです。えっと、ああ、麺類。麺類です!」
「メンルイ? それは人類とは異なるものでしょうか」
「それはもう、もちろん。……あ、でも『もち』と『うどん』は、別のものなんです。おもちは、もち米を搗いて作りますから」
「もち米……? そちらもまた、アテナイやアラルコメナイでは耳慣れないものですが」
「きっと一口食べてみれば、みなさんもお気に召すと思います。くるみなどを混ぜてもおいしいんですよ」
「実態がわからないまでも、価値あるもののようですね。実におもちろい」

 イピゲネイアはかつて、弟オレステスの罪を浄めるためにタウリケからアルテミス像を持ち帰ったことがありましたが、そのタウリケからの帰途を見守ったのがアテナだったので、打ち解けた空気になるのも自然といえば自然です。
 しかし自分そっちのけでアテナと盛り上がるゆかりを見て、アルテミスは多少やきもちをお焼きになられました。それはもう、雑談の中で取り扱われる題材が、おもちだけに……(ぷくー)。

「私の巫女は、まだ寝ぼけているのかもしれませんね。頬をつねってあげましょう」
「ふぁ……(プルプル震えるゆかり)……だ、大丈夫です、もう起きました。寝ていません。というか、アテナさんは外出なさるところでしたね。お時間の方は大丈夫ですか?」
「だいじょ う ぶ。 か  み  さ  ま  だ   か    ら」
 グングン背丈を伸ばしながら、アテナはおっしゃいました。しかしアルテミスは冷静に、それを咎めます。
「……巨大化すればたしかに歩幅も広がり、時間短縮になりますが、今日のところはお控えいただきましょう、姉様。道中で目立ちすぎますので」
「あ    い   わ  か った(シュルシュル縮みながら)」
「伸縮自在なんて、すごいですね! グラブルのきらりさんみたいです!」

 ギリシア神話の神々が身長およそ200メートルに達するほどまで巨大化しうることは、ホメロスの叙事詩にも謳われております。
 そのような神々が身長を変えながら声を出すと、ドップラー効果により、その音程に変化が生じることになりますね。ゆかりにとっては、そこもまた新鮮味のあるおもしろポイントなのです。
 ちなみにグラブルのきらりさんもやはりこの種の能力を備えており、その召喚効果はバリアの耐久性を上げることです。

「見世物ではないから拍手してはいけませんよ、イピゲネイア。姉様も、頭を掻いて照れないでください」
「申し訳ありません」「すまない、調子に乗った」とふたり。
「それからイピゲネイア、出かけるのはアテナ姉様だけではありません。私たちも行くのですよ」
「えっ、そうだったんですか。それは、どちらまで……?」
「カドメイアです。そこで今日、カドモスとハルモニアの結婚披露宴が催されます」

 冒頭部で女神アルテミスの花冠を御覧になって既にお気づきの方もおられましょうが、この夢という現実の中では、時系列の配置さえ、通り一遍ではないようです。
 とはいえ、そのような現象もたとえば《水面に石を投げれば波紋が立つ》という物理法則に似た夢の法則を反映したものにすぎず、《石を投げたその池の中に竜がいる》こと――つまり、水本ゆかりという少女が今、古き神々の前に在ることほどの不思議ではないとも言えましょう。
 あるいはこの調子でいけば、女神ハルモニアの娘である私が、母の婚礼の席に居合わせるようなことでさえ、実現しうるのかもしれません。

 そのような事情はさておき、カドメイアまでの道のりは、アテナイから出たところにある大きな道をまっすぐいって、オイディプスが彼の父ライオス王を打ち殺すことになる《運命の三叉路》を右折すると着く感じです。二柱の女神とイピゲネイアこと水本ゆかりは、さっさか歩いていきました。
 目的地が近づくにつれて言葉数が少なくなっていくアルテミスの分まで、アテナは饒舌に話し続けます。

「カドモスというのは、あれでなかなかエキサイティングな男ですよ」
「そうなのですか」
「私の蛇(※メデューサのこと)を倒したことがあるのはペルセウスぐらいですが、カドモスはアレスの蛇を倒したのです。しかも独力で」
「まあ。英雄なのですね」
「ええ。思い返すだけで、祭と聞いて我慢できずに駆け付けたアンドリュー.W.Kみたいになってしまいます。……誰でしたっけそれ。
 とにかく、それでアレスがキレて『8年ほど奴隷としてこきつかってくれるわ!』という風に息巻いたわけですけど」
「8年も、ですか?」
「たいして長いわけではなく、部外者から見ると一年ぐらいの感覚ではありますね。
 ともあれ、腹立ちまぎれで家に若い男を入れてみたら、案の定、娘のハルモニアとフォーリンラブ。それで今回この結婚なのだから、アレスも相変わらず後先を考えない男です。娘のスピーチの段で絶対に泣きます」
「ふふっ。それは、感動的なお話ですね♪」
 と、ゆかり。衣装ウィル・フォーエバーを着て『With Love』を歌い、披露宴のふたりを応援してあげられたら――というような想像が、ふわりふわりと膨らみます。しかしこれに応じるもう一柱の女神、アルテミスの顔色はなぜか優れません。
「……そう……? 私には、よくわからない……」
「あ、あら……? アルテミスさんは、興味がないのですか?」
「別に気に入らないわけではないけれど……蚊帳の外といったらいいのか。妙に感情が内から湧いてこないのです」
「それはきっと――アルテミス、あなたがメレアグロスのことで、もはや涙をこぼすまいと耐えているからでしょう」

 あなたがたの時代から数えて五千年ほど昔のことになるでしょうか。かつてギリシアに南下してきた人々は、まずカリュドーンあたりに定住しましたが、その四方には当然、先住民族ばかりが暮らしておりました。
 もとはといえばこの先住民族に尊ばれていたのが、猪を眷属とする遠矢の女神アルテミスであり、オイネウス王がアルテミスへのお供えを忘れた理由も、この女神がある時期までは自分たちの部族の神ではなかったからなのでしょう。
 女神は己の勢力圏に現れたこの新参者たちに興味を持ちました。
 そして時には大きな激怒を発し、時にはまた安らかな加護を与えたのですが――そういった暮らしの中で、乙女アタランテに化身した女神を讃え……また愛を語らおうとした英雄の名が、メレアグロスだったのでした。 

「メレアグロスはたしか、アルゴー船やカリュドーンの猪狩りの英雄ですね――アタランテと恋に落ちたけれど結ばれなかったという……?」
「その想像はきっと間違っていません。イピゲネイア、あなたがアキレウスを失ったように、我々も……」

 悲痛の気配を感じとり、思わず口元を手で覆うゆかり。しかし二柱の女神たちは、過去に囚われたところのない、さっぱりした顔をしています。
 察するに、人には指摘されてなお思い出したくないこともあれば、指摘されて初めて前を向けるようになることもあるようで、我々も人間も、このあたりの事情はおそらく変わりがないのでしょう。

「彼の命は焚き木のように燃え尽きました。それは短い一生でしたが、誰かの心を温めはしたでしょう。これはそういうお話ですよ、イピゲネイア」
「……いい顔ですアルテミス。『運命にはゼウスも逆らうことができない』とは、よく言ったものですね」
「さすが、姉様は梟の眼を備えておいでで――」
「お互い、理由あって処女神ですから(まさかのカメラ目線)。けれど私はハルモニアに渡すものがあるので、それでも行きますよ」

 アテナはきらきらと輝く美しい箱を、いつの間にか手に取っておられました。

「姉様、それはもしかして……?」
「そうです。これは私とあなたが共に失ったはずの、古く懐かしい思い出――大事な大事な、祭祀の笛です」

 その言葉が、月を射抜く矢のように放たれた瞬間、ぐにゃりと世界はねじ曲がりました。ゆかりは、自分の意識が遠くなり、巫女イピゲネイアの体から離れていくのを感じます。
 渦を巻くように流れる旋律がゆかりの意識を運び上げて、それは彼女が慣れ親しんできたクラシック音楽でしたが、瞬きひとつする間に音量を変え、調を違え、曲目が切り替わり、幾通りも、幾通りも……

(この曲はなんでしょう……。ドビュッシー? グルック? ああ、ラヴェルまで……)


 こうして少女は、無事に現代への帰還を果たしたのです。


*    *    *


 小田急線でPに見守られつつの眠りから覚めた水本ゆかりは、最近参加することになったあるお仕事について、あれこれ思い悩んでおりました。
 そのお仕事の内容は、メロウ・イエローの三人で『YELLOW YELLOW HAPPY』をカバーするというものです。
 Pはゆかりが目を醒まし、かつ見当識を取り戻したことを確認すると、以下のように問いかけるのでした。

「ゆかり、君はどう思う? 歌詞のこの『もしも生まれ変わっても また私に生まれたい』という部分について」
「そう……ですね。『生まれ変わり』という考え方があること自体は、私も知っています。けれど、私自身生まれてまだ15年では、それについて特に差し迫った想いはないのかもしれません。『いつか太陽が消えてなくなる前に』という部分もそうですね。なぜって、私たちの方が太陽より先に消えて――いなくなってしまいますから」
「ははあ、これは参った。ゆかりって結構、現実的なところがあるよな」

 Pは、かつて自分の担当アイドルが「自分の表現には自分だけの世界がない」と告白した時の顔つきを思い出します。また、彼女が演劇に初挑戦して「なにもかも足りない」と悟りつつあるさなかの表情も、Pには忘れがたいものでした。
 それらはP自身の少年時代とも幾分かは重なるようで――たとえばかくれんぼの鬼が物陰から伸びる人影をみつけて、叫び出したいような昂揚感を抑え、そっと近づかなくてはならない時のあの気持ちを、ゆかりも楽しんでいたのではないかとPは捉えていたのです。
 なにがあろうと、なにもなかろうと、水本ゆかりはなにひとつ諦めようとせずに、今ここにいます。Pはそのような少女を指して、現実的と評するのでした。

「恐縮です。ただ、これは最近、学校の授業で《反実仮想》という技法について習ったからこそ、そう考えてしまったようにも思います。
 頭でっかちな鑑賞態度かもしれませんが……この歌詞もそれに通じるような技法を使って書かれているのでは――と」
「なるほど。すると、そういった非現実を持ち出すことで、この曲は我々にいったい何を伝えようとしていたんだろうか」

 P自身が読み取ったところによると、この曲の《私》は好きな人とhappyになるために「死によってさえも滅ぼせない、太陽よりも不滅な私自身」という強烈な自我を構築しようとしています。この難題が実現可能かといった点についてはリズム隊に負けないヴォーカルの存在感で遮二無二つっきろうという感じで、それがむしろ聴き手に好感を持たせる仕組みになっているように思われたのですが、自身の読みはさておき、ひとまずは実際にそれを歌う水本ゆかりの読みを把握しておきたいところです。
 ゆかりは手許の資料にある歌詞のうちからその一行を選んで指でなぞりつつ、どこかしら厳かな表情でこう唱えます。

《もっとあなたを好きなこと伝えなくちゃ》

「確かに。それで他の部分は、《もっと》の切実さを表現するために必要とされた演出にすぎない――というのが、ゆかりの解釈?」

 たとえば南条光がカバーする『君の青春は輝いているか』では、《愛が欲しければ誤解を恐れずにありのままの自分を太陽にさらすのだ》というのが主要なメッセージですが、同時にそれができずに迷う聴き手側の心でさえも《宇宙全体よりも広くて深いもの》として捉え、その価値をばっさり切り捨てたり、見限ったりするようなところがありません。この曲が単に耳に痛いお説教ではなくヒーローソングとしてある所以はそこにありましょうが、ゆかりの目に映る『YELLOW YELLOW HAPPY』に、このような姿は見受けられないものだろうか? ――というようなことをPは探ろうとするのです。
 なにかしらの寄り添う心がなければ、この曲は《強烈な自我を振りかざす演者と、それを自分の延長と勘違いして酔いしれる群衆を生む装置》にしかなりえず、その歌詞とは裏腹に、人が太陽より先に滅びる定めを変えられはしないでしょう。
 しかしこのような心配はどうやら、杞憂のままで終わるようです。

「いえ、そこまでは……。なぜって、彼女が買った黄色い子犬はきっととてもかわいかったのでしょうから」

《誰もが欲しがるお金で 黄色い子犬を買った》

「……Kawaii、だって?」
 Pは目を瞬かせて、担当アイドルの横顔を見遣ります。
「はい。ですがこの曲はもう20年以上前に流行った曲だと伺っています。今現在の話となると、この犬はもうkawaiiというより『大きくて頼りがいがある』と呼んだ方が当たっているのかもしれませんね。
 そして、歌の中の《私》や《あなた》を今も優しく見守っていたり……なんて」
「犬にかけて誓う――という感じか。それじゃあ誓いをかけられた犬の側でも、うかうかしてはいられないな。大きく育つわけだ」

 Pは、作品を読み解くにあたって、自分の感性のみに依拠するタイプではありませんでした。
 それは彼自身さまざまな作品に接する中で、見当違いな解釈を多々やらかしてきたがゆえの臆病さと慎重さによるものでしたが、この曲に接するにあたってもなお、シムノンの『黄色い犬』を読むなどといったあてずっぽうな冒険を、彼が相変わらず楽しんでいることも確かです。
 そしてまたPは、ゆかりがまだ彼女自身の感性でもって作品そのものを眺め、表現できるところを喜んでおりました。

「歌詞の中の『私』はきっと、そういった幸せな確信をもって、愛の告白をする人なのだと思います」
「では、この曲を君たちにリクエストした人たちも、おそらくは……彼ら自身そうありたいと考え、また実践してきたのかもしれない。そして同じことを、君たちにも望んでいるのかもね」
「あっ……」
「詩ではよくあることだけれど、人の心は建築物にたとえられる。単に伝えたいことを歌詞にのせるだけの歌手の心は、音響反射板のないコンサートホールと変わらないんだ。無人の空を征く孤独な鳥の歌もそれはそれで価値があるが、この曲はそうじゃない。……なにがいいたいか、わかるかな」

 Pには(きっとわかってもらえるだろう)という予感がありました。それは演繹的推理によるものではなかったものの、帰納的に期待できる反応ではあったのです。水本ゆかりが[素顔のお嬢様]で会場の設営を見守る姿や、[クラシカルハーモニー]で充実したホールの設備について語る嬉しげな表情――それにまた、ルームの装飾からPの心をみてとろうとする感受性なども含めて、日々の交流がPにそのような確信を抱かせたことになります。

「聴く人の心に、届くように。背中を押してくださる方の期待に応えるように――そのためになにをしたらよいか、ということでしょうか。それが歌う自分の中に音響反射板を設置することで……私がみてきたファンのみなさんの笑顔や、スタッフの方たちの尽力とも、繋がっている……?」
「うん。クラシックの名曲を演奏してきたゆかりに言うのも釈迦に説法だが、既存曲をカバーするということは、それをよく教えてくれる。君がみつけた黄色い犬の《かつて》と《今や》は、きっと君自身が思い描くに至ったファンやスタッフの人生の歩みでもあるんだよ」
「たくさんの人の、人生の……」
「とはいえ黄色い犬に関する部分の歌詞は、あえてカットすることになると思う」
「えっ、カットしてしまうんですか?」
「そう。なぜって、2分しか尺がないもんだから。それに黄色い犬のhappyについては、君たちのパフォーマンスで会場が一体になることによって表現できるはずだと、こちらでは考えている」
「……はい。そうですね。私も有香ちゃん・法子ちゃんと、早く揃って歌ってみたいです♪」

 ゆかりの右手首にかかった黄色いブレスレットが、車内の柔らかな日差しを浴びて、キラキラと輝いています。小田急線の車両は、このような午後を乗客の数だけ詰め込んで、ゆかりとPをゆかのりこの待つ収録スタジオへと運んでいくのでした。(了)