誠実なる花嫁

水本ゆかりとギリシア神話 #3


水本ゆかりは、ウェディング関係の仕事を二度経験しています。
今回はその点に着目して、水本ゆかりとギリシア神話の女神ハルモニアの接点を探ってみようと思います。

さて、ギリシア神話でウェディングといえば、普通なら婚礼の女神ヘラの名前が真っ先に挙がるはずです。
にもかかわらず、私は調和の女神ハルモニアの名前だけを持ち出しました。
これがなぜかというと、ヘラは一度しか結婚していないからです。

ハルモニアは二つの点で、特別な結婚式を挙げた女神といえます。
まずひとつ、彼女は人と結婚して神々から祝福された最初の女神とされています。つまり、人間ペレウスと結婚して祝福された女神テティスの先輩格にあたるわけです。
ハルモニアが神々から享けた祝福の中には、アテナから贈られた笛も含まれています。きっとその場で花嫁が演奏したのではないかと、私には思われます。人間の英雄カドモスと調和の女神ハルモニアの一度目の結婚はこのように、神々の列席する華やかなものでした。

そして、私が二つ目に挙げるハルモニアの特異な点は、この女神が同じ夫と二度結婚したということです。
わかりやすくいうと彼女は「死が二人をわかつまで」と「死後」の二度、カドモスと結婚しました。
男女一対の神々の結婚ではなく、人と女神が手を取り合った帰結としての二度の婚礼は、重大な意味を秘めています。

ハルモニアの夫となったカドモスは、都市テーバイ(カドメイア)を建設した王です。
彼は建国の過程で軍神アレスが飼っていた蛇(竜)を退治してしまい、神と対立関係に陥りました。
カドモスはアポロンやアテナの仲裁を得て、アレスへの償いに8年の間奴隷として仕えることで、なんとか和解にこぎつけます。
この和解が成立したことを象徴したのが、アレスとアプロディテの娘・ハルモニアとカドモスの結婚でした。

西洋において「人と神の和解」が癒しを意味することは既に申し上げました。
そしてまた、エアリアルメロディアのイメージソースであるところのアルテミスが、オリュンポス十二神に組み入れられる過程で、聖婚を主宰する権能を奪われたこともです。

聖婚(ヒエロス・ガモス)とは要するに神々の結婚のことで、相手が神である場合もあれば、人間であることもあります。
これがとりわけ豊穣を司る女神の結婚である場合、植物の成長サイクルを反映した特殊な儀式として、信奉者たちの生活にも取り入れられます。すなわち、夏には黒い土で豊かに育ち、冬には枯れて種子となって白い土の中で眠ることを比喩的になぞった祭が、定期的に催されるのです。
それが「死と再生」というテーマとして理解されると、秘儀宗教の形式をとることがあります。そのもっとも有名な例は、エレウシスのデメテル崇拝であり、トラキアのディオニュソス崇拝であり、そしてオルペウス教です。
ハルモニアもまた蛇(=ウロボロス)という象徴によって、選ばれた人間に「死と再生」を与える豊穣の女神であったといえます。

実はエアリアルメロディアのステージにも、このウロボロスがいます

まずはイオニア式の柱に目をとめて、そこから中央のゆかりに向けて目を動かしてみてください。そうすれば、緞帳の縁に尾を呑む金色の蛇が刺繍されていることにお気付きいただけるかと思います(赤枠部分)。ウロボロスは、ゆかりのウェディング関係の仕事だけでなく、エアリアルメロディアにも関わってくるのです。

ですからここは焦らず、専ら水本ゆかりについて語りたいところをひとまず抑えて、ウロボロスとは一体なんなのか、私の認識している範囲内で述べてみることにしましょう。

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ハルモニアとカドモスの二度目の結婚において、ついに姿を現すのが、かの有名なウロボロスです。
それは大いなる癒しでしたが、「カドモスやその子孫は呪われた」と解釈する人々も多かったようで、「調和の女神ハルモニアの首飾りは呪われている」というような見解も、わりと広く支持されています。
どうもハルモニアの加護の本質を探るには、カドモスが直面していたものに言及する必要があるのではないかと私は考えます。

カドモスは、大いなる癒しを必要とするような精神的危機に瀕していました。
その危機がどのようなものだったかを解き明かすには、婚礼の制度と価値観が変遷してきた道筋に注目せねばなりません。
カドモスの時代はそれらが激しく変動する過渡期で、複数のスタイルの聖婚が混在していました。

処女神として知られるアルテミスの聖婚は、もっとも古いものでした。それは蜂の社会システムに似て、とにかく次代に生命を繋ぐ機能を担っています。
とにかく女性が強い男性を選んで夫にし、多産であることを重視するのです。
食糧に乏しく、寒暖差も激しく、たいした医療もない時代ですから、弱いことは死に直結しました。
その婚礼スタイルの一部は、アタランテの逸話にも反映されています。
求婚者たちは、アタランテに徒競走で勝たなければ夫になれず、殺されたといいます。強い種を得なければ次の代で滅んでしまう危険があるので、そのまま同じとはいわずとも、近い形になっていたのでしょう。

厳しくはあるものの必要でもあったアルテミスの聖婚を通じて、人類はなんとか自然環境に耐えうる力を身に着けました。
身体能力の向上というのもあるでしょうが、自分たちと同様に動物にも品種改良を施して、良い家畜・良い猟犬を得たことは無視できない大きな変化です。
家畜によって生産力が上がり、地域ならではの衣食住が整えば、自然と結婚相手の選択肢にも余裕が出てきます。
こうして強さ・丈夫さ以外の価値(美しさ、賢さ、優しさなど)にも目が行くようになると、経験や智慧を語り継ぐことの価値も、広く理解されはじめるでしょう。実にカドモスは、ギリシアにアルファベットをもたらした男でした。
その価値観は後に「退位後の王がアドバイザー的な地位に就く」という発明をもたらし、女王と王のシンプルな関係に終止符を打ちます。元老院が形成され、王政から寡頭政へ移行するのです。
それはテーバイの王がただひとり政権を握っていたのではなく、竜の歯から生まれた家臣団(いわゆるスパルトイ)を備えていることとも関わっています。
おおまかにいうと、ハルモニアの聖婚がもたらした社会的変動というのは、そういうものです。

ところで、アレスの子であるオイノマオス王は、娘の求婚者と戦車競技をして、敗者を殺していました。
オイノマオス王を殺してその娘と結ばれたペロプス(アガメムノン王の祖父)の立場は、アレスの蛇を殺してハルモニアと結婚したカドモスと似ています。
そしてまた、オイノマオス王の立場は、求婚者と徒競走で勝負して敗者を殺したアタランテとも似ています。
ふたつのスタイルの聖婚は、併存どころか融合していた時期さえあったのでしょう。カドモスとハルモニアの孫・アクタイオンは賢者ケイローンの弟子で将来を嘱望されていましたが、アルテミスの聖婚を選んで、一族の間から姿を消しました。価値観というのものは、ひとそれぞれなのです。

とはいえ、人間たちの生活が豊かになり「アクタイオンの末路は悲惨」「オイノマオス王は残酷」と考える者が増えるにつれて、女神アルテミスの聖婚はあまり模倣されなくなっていきます。アタランテの子パルテノパイオスの出自はよくわからないことになり、アルテミスも処女神になりました。
アテナがハルモニアに笛を贈ったことには「時代が変わったのでバトンを渡した」というに近い意味がありそうです。

アルテミスの聖婚が廃れていくにつれて、社会システムは母権制から家父長制へと変動することになります。すると次に起きたのは、男同士による権威の奪い合いです。父と子の衝突や、兄弟による家督争いが起きました。
これをカドモスの一族の中でみるなら、有名なオイディプス王の伝説ともなりますし、はたまたテーバイ攻めの七将の伝説ともなります。

このような衝突を前にして、父と子の付き合い方を教えていたのがゼウスによる政権確立の神話です。
いくら統治力に問題がなくても、王位を守るために片っ端から子を呑みこむクロノスは暴君ですし、去勢して退位させるしかありません。他方、ゼウスは神々の父として請願を受ければある程度聴く耳を持ち、一度ステュクスの流れに誓いを立てたならば、前言をひるがえすことはありません。また、性欲旺盛な浮気者と笑われることも多い彼ですが、ギリギリの線で諦めるべきところは諦めています(自分より優れた子を産むテティスとの結婚など)。
ゼウスが人間の王たちに授けたのは神の裔という権威だけでなく、欲望をコントロールして現実に対処する方法も手解きしていたのでした。

ゼウスの妃ヘラが人間の妃たちにもたらしたものも、ひたすら現実的です。
ヘラは妻という身分に最大の加護を与え、ひとたび妻となったものに揺るがぬ祝福を与えます
それは子供を産み育てることを援助する神格・エイレイテュイアや、浮気相手を許さない性格にも明らかですが、もうひとつ、夫を喪った女性(寡婦)を手厚く保護するという特徴があります。
共同体を守るために武器をとって戦わざるをえない時代に、この社会的機能は絶対必要でした。

カドモスが異邦人(フェニキア人です)だったことを思えば、異国の風習を積極的に取り入れるハルモニアの聖婚が、ギリシア本土の現実に合わせて洗練されたヘラの聖婚の価値観と衝突したことは疑いありません。
ヘラはカドモスとハルモニアの娘たちを「セメレーはゼウスと契った」「イーノーはディオニュソスを育てている」という理由で次々と死に至らしめます。

また、ディオニュソスが育ったら育ったで、重大なトラブルが起きます。カドモスの孫ペンテウスは王となりましたが、領民をおかしな行為に駆り立てるディオニュソスを神と認めなかったため、狂気に憑かれた母親たちの手によって、四肢をバラバラに引きちぎられてしまいました。

カドモスは、自分の子孫が残酷な死を迎え続けることに、疲れ果てます。
しかし彼はアルテミスを、ヘラを、孫のディオニュソスを呪いません。
ただ「自分は本当にアレスと和解できていたのだろうか」と悩むのです。
ここにおいてついに、カドモスの精神的危機の内容が顕わになります。

すなわち「なぜ私の子が私より先に死ななければならないのか」です。

これは母権制から家父長制に移行する過程で、いつかは男性が遭遇することになる不可避の苦痛でした。この時まで男性にはまだ「自分の家を自分の子が継ぐ」という意識が薄かったはずです。自分の子が死んだとしても、それは共に女王蜂を守る蜂の同僚が倒れたようなものだったでしょう。しかしもはや、彼にとって子孫とは女王を守る同僚ではなく、未来を託すべき者です。そのはずでした。

カドモスはある意味、文字のない世界に文字を導入してでも、愛する後継者たちになにもかも伝えたいと考えた男です。しかし伝えたい相手は、自分より先に次々と世を去っていきます。この理不尽に相対した老年のカドモスは、アレスの蛇の祟りはまだ続いていたのかもしれないと考えました。

「神々がそんなに蛇をかわいがるというのなら、私も蛇になりたい」

私が思うに、この嘆きを耳にしたアレスは多少カチンときたはずです。
「俺はお前を赦してやったし、しかも娘まで嫁がせただろ」と。
それでアレスはどうしたのかというと、「男に二言はねえな」とばかり、娘婿のカドモスを、蛇に変えてやりました。

アレスはなにも、怒りをぶつけるためにそうしたわけではなかったでしょう。単にやることが荒っぽい神なのです。
その思い切った行動はいわば、嫁いだ娘ハルモニアに発破をかけるものでもありました。こうなったからにはおまえもカドモスに本性を見せろ、そうすればわかりあえる、と。

ハルモニアは蛇と化した夫に手を差し伸べ、自らも本性を顕わしました。
それは、我が子が先立つことの嘆きを丸呑みにした、母なる蛇の姿でした。
かつて女神/女王と呼ばれていた女性たちが、あの苦悩をずっと抱え続けていたことを、カドモスは知ったのです。

こうしてカドモスとハルモニアは、真に夫婦としてお互いを理解し合い、嘆きを呑みこみあいました。
絡みあう二匹の蛇=ウロボロスは現世から去り、エリュシオンで永遠に睦まじく暮らしていると伝えられています。

これがカドモスとハルモニアの二度目の結婚でした。

尾を呑むことで円を描く1匹あるいは2匹の蛇の図像は、古代エジプトからフェニキア(カドモスの出身地)を経てギリシアに伝わり、ウロボロスと呼ばれたものです。その真髄は航海の民たるフェニキア人や古代ギリシア人たちによって、海に沈むことのない大熊座の円運動を介して理解されたのでしょう。

苦と楽とがあらゆる人に/かたみにめぐってきます、ちょうど/大熊座がぐるっと廻るように。――ソポクレス『トラキスの女たち』大竹敏雄・訳

ハルモニアとアルテミスは、第一の結婚では花嫁と祝賀客として出会い、第二の結婚では不滅の円運動(ドーナツ…なのでしょうか?)によって、共通する信奉者を増やしました。結果、エフェソスのアルテミス大神殿にはウロボロスの姿も見られるようになったのです。

このように考えてみると、ギリシア神話の中でハルモニアの存在が語り継がれてきた理由は、単に「彼女が系譜上テーバイ建国伝説の女神だったから」というだけではなかったようです。
刻々と変化していく婚姻制度・婚礼儀式の在り方に直面して悩みながらも、自分たちの愛を成就させたいと願う――そのような姿勢に共感する人々が、いつの時代もどこかにいたということでしょう。

それはまた同時に、[誠実なる花嫁]やLove Yellで水本ゆかりが挑んだ課題でもあったに違いありません。
二度にわたる婚礼の仕事の中で、ゆかりが二度とも婚礼衣装を着たままフルートを手に取ったという事実に「そうしたらゆかりP喜ぶでしょ?(私自身かなりの大喜び)」以上のなにかがもしも見出せるとしたら、私はそれを、ゆかりとハルモニアの間に結ばれた縁なのだろうという風に考えてみたいのです。

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ウェディングモデルアイチャレで奈緒・千枝・早苗という仲間たちとともに水本ゆかりが体験した祝福とは「あなたが成熟した大人の女性かどうかより大事なことがあります。まず自分の手で幸せを掴みましょう。きっとできますよ」というものでした。

蛇もまた、脱皮はしますが蛹から蝶へと変貌するわけではありません。ただ、一回り大きくなるかならないかの違いがあるだけで、「何度脱皮すれば大人」という決まりはないといえます。

アイチャレの経験を改めて重視したのが、河川敷仲間の乙倉悠貴にフルートの演奏を贈るシーンです。ゆかりはかつて自分が享けたものと同じ祝福を、その時必要としていた仲間の少女にお裾分けすることができました。
それはウェディングモデルアイチャレや『あいくるしい』、そしてエアリアルメロディアがあってこそだったと、私は考えます。

ゆかりは努力家で、ことあるごとに「成長」という言葉を口にする少女です。
しかしそのぶん初期は、きちんと段階を踏むことにこだわりすぎていました。
今の自分の力量ならば、許される行動の範囲はこのくらい――その感情の動きは、「魔法が解けたから」という理由で階段を駆け下り、王子に背を向けたシンデレラと同じものです。乙倉悠貴もまた、この心の動きに振り回され、自分がミニのウェディングドレスを着ていいかどうか迷うのでした。

ゆかりも悠貴も、そのままではいけないと感じたようです。まだ恋を知らないまでも、王子に背を向けないシンデレラでありたかったのでしょう。
彼女たちの想いは、シンデレラガールズの中で度々掲げられてきた「12時の魔法が解けても自分の足で歩けるように」というビジョンと重なります。

アルテミスが司る月の満ち欠け、大熊座が夜空に描く円軌道、そしてカドモスとハルモニアの真の姿ウロボロス――これらのキーワードは水本ゆかり自身の経験を母胎として、シンデレラガールズの物語に【零落した女神の物語】だけでは終わらない【復活する女神の物語】をもたらすでしょう。

誰もが知っている通り、シンデレラは十二時を過ぎて零落しても、きっとまた王子の前に現れるのですから。


私が#3で扱いたいと考えていた内容は、以上に述べた通りです。
しかしまだ語り終えていないことは残っていて、たとえばハルモニアは英単語"harmony"の語源となった女神でもあります。

そこで次回は、水本ゆかりが「ハーモニー」という言葉をいかに用いてきたかをなぞって、エアリアルメロディア考察の締めくくりとしたいと思います。
この試みによって、水本ゆかりが「光」に手を伸ばすまでの軌跡を、より明らかにできるはずです。