今日もまた、母との一日が終わります。

毎朝、訪問看護師さんまたは、介護士さんが来てくれていますが、最近よく、「娘さん、ちゃんと食べてますか?」と訊かれる。

私は、人よりよく食べるほうで、今も食べてる量は変わっていないと思う。でも、自分では気がつかないうちに、痩せてきているようで、お願いだからちゃんと食べてね、と旦那にも言われてしまった。

やっぱり、人から見ると、やつれてるのかな?
でも、そんなこと別にどうでもいい。

余命わずかな母を介護していることは、何も恥ずかしいことじゃないし、やつれてようが、ヨレヨレだろうが、今この現実に向き合って生きてるから、人からどう思われても、正直平気だ。

毎週、水曜日の朝は、母がお気に入りの介護士さんが来てくれるのだが、彼女が来ると、私が癒される。もうちょっといてくれないかなと、思ったり…。彼女が、この前の帰り際、母が腎ろうをしていることは、今となればよかったのかもしれないですね、と言った。最初はもちろん嫌だったと思うけど、腎ろうのおかげで、オムツを1日に何回も交換しなくていいから…と。つまり、身体を動かす回数が増えて、身体への負担が増えずにすんでいるのは、今となってはよかったのかもということだ。確かにそうかもしれない。

主治医から去年の春、母の右側の腎臓が機能していなくて、左側も危ないので、直接管を通してバッグをつけて、そこに尿が溜まるようにしますと聞いた時は、母がかわいそうで、泣いた。

でも、母は文句ひとつ言わず、泣きごとも言わず、新しい排泄の仕方に慣れようとしていた。

子育てとは逆で、介護は一つひとつできなくなっていく変化を受け入れて、まだできていることに目を向けていく、この繰り返し。

今はもう、できることは減ってしまい、1日に2-3回だけでも、母が目を開けて、ひと言でも発してくれると、あ、今日も私のことをちゃんとわかってくれていた…と、ほんの少し心が安らぐ。

毎日、午前中にオムツ替えや着替えなどが終わると、それから何もできずに、気がつくと夜になっていて、母の部屋で、母のとなりで、ボーっとしている間に時間が過ぎている。

当たり前だけど、みんな自分の人生に忙しいし、人のことは忘れてしまう。母のことを話したら、大変だね、来週会いに行くよ、と言っていた人もいたけど、そのメッセージをもらってからすでにひと月が過ぎた。別に責めはしない。

さみしくて、つらくて、わかってほしくて、友人、知人、スーパーの店員さん、すれ違う人にまで、母が余命ひと月なんですと、話したくなる時がある…。そんなことしないけど。




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