「どこにもいない」を越える習慣
ある意味でこれは過去のエントリに関するアンサーになると思う。
「どこにもいない瞬間」というのがSNSや便利過ぎる連絡ツールにどっぷりと浸かっていると、耐えられなくなってしまう。
そういうくらいに人は寂しさや孤独に弱くなってしまっているし、逆に昔の人はこの感覚をどうやって堪えていたんだろうか。
そんなことをぼんやりと考えてタイトルと一行目だけを打ち込んで、早いもので3ヶ月くらい放置していた。とりあえず、曖昧模糊な記憶ではあるが、タイトルから察するにおそらくコレとも関連してるのかもしれない。
「何を書こうとおもったのか」
あまり記憶がない・・・。
というよりも突発的に思いついた内容な気がする。
でも書ける気がするから、とりあえず書いていく。
どこにもいない瞬間が存在する。
四六時中一緒にいられる訳でもないし、常に連絡がとれる訳でもないのだから、現実にもネットにも「どこにもいない瞬間」が存在する。
ただ、慣れてくれば慣れてくるほど。
というよりも生活リズムを互いに認識し合ってくると。
不思議と「今、何をしているんだろうな」ということくらいは、ぼんやりと分かってくるものである。
「どうで寝てるんだろうなぁ」とか。
「そろそろ二缶目を開けてるのかなぁ」とか。
「買い出しからのご飯作ってるんだろうな」とか。
「今、どのあたりを走ってるんだろうなぁ」とか。
「お仕事頑張ってるんだろうなぁ」とか。
実際にそこにいなくても、おおよそ多分。
「どこかにいる感覚」を掴めてくる。
決してそれが真実であろうと、なかろうと。
「どこかにいる」というぼんやりとした感覚があるのとないでは、きっと感じ方が大きく違うのだと思う。
むしろ僕たちは便利の波に呑まれてしまって、そういう「相手がちゃんとどこかにいる」という感覚が麻痺しているし、変な疑心暗鬼にも意味なく殺されて無意味な争いまできっと起こしているんだろうなって。最近、いろんな話を聞いて、そう思った。「どこにも存在していない」かのような、そんな感覚というのは忌まわしい錯覚でもあるのだろう。
僕はここにいて、あなたはそこにいて。
君はどこかにいて、僕もどこかにいて。
彼も彼女もどこかに、ちゃんといる。
「こんな世の中だからこそ」と。
「一緒にいれることだけでも幸せ」と。
そう実感する人が増えてきていると聞いている。
きっとそのうちに。
例えば一言の「おはよう」とか、
例えば二言目の「またね」とか。
たまに、そういうのでも、返ってくるだけでも。
幸せだなと思えるようなフェイズも来るのかもしれない。
それはある意味で、便利な時代によって
寂しがりやにさせられた僕たちが、
本当の寂しさを理解するには良い機会で。
まぁ、そのなんだろう。
書ける気がしていた割に、
やはり上手く書けなかったけど、
離れていても、どこにもいなくても
多分、きっとどこかにいる。
そう思うことを習慣付けて。
伝わろうとも伝わらなくとも。
好きな音楽の歌詞でいうところの
「あなたは二度と孤独にならない」
「いつか必ずわかる日がくるよ」
みたいな感じなんだと思う。
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